速度、動きの予測

機械を使って正確に測定し、新幹線が大阪を9時に出発して東京に12時に到着した、あるいは今この瞬間の1メートルを何秒で通過した、だから新幹線の速さは時速何キロだ、とわかった、というようなことは、そういう事実に速さという名前をつけただけ、のようなことだから、不思議なことは何もない。大阪を9時に出発して東京に12時に到着したから岐阜を何時ごろ通過したとわかるとか、同じ速さで東京を通過して仙台に向かえば仙台に何時ごろ着くとわかる、というのも、予測というよりは、決め事のなかの話、と考えればよいように思います。

予測が難しいもの、たとえば動きが複雑なもの、についての予測、未来の動きについての予測は、最初から難しいとわかっているのだから、おかしな動きをすると、わざわざ考えたりはしないのではないか? (台風の動き、など。)押すといつも押した方向に動く、あの大きな石を持つといつも重い、という自然史的事実、石とか重いとか押すとかいうことの意味を支えるもの、があって、それについてどう考えるか、どのようにすれば意図どおりに動かすことができるか、持ち上げることができるか、を正確に知る、ことについての考えなのだから、ここで「あるとき押すと、全く動かず、あるとき押すと、回転し、あるとき押すと、押した方向に動き始める、のような状況」について考えるのはおかしい。ここで、こういうような状況のことを、直感でいける、のような感じで、とりあえず妄想しておきます。
石はいつも重い、押すと押した方向に動く、物を投げると放物線を描く、のような観測され習慣になった事実があって、それをどう考えるかだから、押すと絶対必ずいつも同じ結果になるかどうかなんてわからない、と考えるのはむしろ不自然だ、のようなことを書きましたが、事実があってそれをどう考えるか、という順序で法則へと流れていったわけでもなく、このあたりはもう少し出たり入ったりというか、複雑になっているような気がするので、このあたりも注意ではないかと思います。