樫村晴香「ストア派とアリストテレス・連続性の時代」

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後期ストア派スピノザは、連続性に基づく存在論においても、認識によって感情を統御し、幸福を得ようとする実践的態度においても、うりふたつである。だが、後期ストア派の論理的帰結にあるのは、世界への冷静な認識が進めば進むほど、現在ある世界と人間の姿が必然的なものとして理解され、その汚濁と愚鈍さを含めて、そのようなものとしてあるしかない、全体の因果的連関と現在に至る経緯が、強固に自己主張し始める、ということである。世界を夢想するのでなく、現実に改良しようとすれば、世界全部を焼き払うのでない限り、変えられる部分は驚くほど僅かである。他者を自己の鏡像として目的化し、崇め、隔て、無視するのでなく、彼の欲望と考えを冷静に理解すれば、常に彼は見窄(みすぼ)らしい。スピノザを始め、カントもヘーゲルも、マルクスも、近代哲学者は政治と人間を書斎の中で考える、無力な想像者だったのに対し、ストア派の人々は現実に政治を遂行し、人間、特に他民族とも関わり、想像という言葉を心の底から軽蔑していた。とりわけマルクス・アウレリウスは強大な権力をもち、スピノザの言葉を転用すれば、最も「能動的」な存在だったが、しかし彼が直面したのは、認識と力が増えるほど、自己の手中に入らない膨大な統御不能領域が見えて来るという、極めて無力で受動的な状態だった。

スピノザが、認識の増大、そしてそれが感情を抑制し支配する状態を、能動性の極み、喜びとしてとらえ、信じて疑わなかったのは、直接には、彼がボエティウス流の神秘主義に囚われていたからである。彼は認識の極点に、永遠性、あるいは存在の無限の享受がまさにこの精神で発現する瞬間を想定している。彼にとって、神あるいは無限の差異の認識は、無限の差異そのものである現実へと、認識・精神が溶融し解離することではなく、差異が精神に領有されることである。ここには、諸物の認識を、形象の多様性ではなく、形象を浮かび上がらせる光そのものの知覚とすりかえてしまい、光源そのものに目を向ける感覚の麻痺を、無限の差異の認識だと思いこむ、中世末キリスト教に深く巣くったプラトニズムの残滓がある。

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スピノザにおいて、連続性の観念が流出する光の感覚に侵されたのは、太陽を直視し感覚の麻痺に浸る、ソクラテスと似た彼自身の親分裂病的資質のせいもあったが、重要なのは、この時代の科学・数学の特殊性が、認識の増大を、無条件に情報の縮約と思いこませたことである。スピノザや、以後三〇〇年の哲学者が想定していたのは、任意の場所で一様に微分可能な、二次関数のような式である。これは一つの数式によって全体の情報を圧縮でき、関数全体を「見渡せる」という幻想を生む。微分可能性は、図全体を無限遠まで一望可能だと思わせることであり、そこでは純粋に言語的な認識としての科学は、常に視覚という原初的・身体的認識に、幻想的に係留される。

スピノザにおいて、連続性の観念が流出する光の感覚に侵されたのは、太陽を直視し感覚の麻痺に浸る、ソクラテスと似た彼自身の親分裂病的資質のせいもあったが」って、いったいなんなんでしょうか……。

それは本質的には、世界の一挙的知覚という幻想のために、数学や論理学を症候として使用することだった。この幻想的知覚が対象とし、よりかかるのは、世界・現実そのものでなく、世界を完全に補足していると想像された他者、いわば幼児にとっての原初的他者であり、あるいはその他者に付属する欲動の部分対象である。連続性の認識を数学・幾何学で隠喩したことは、スピノザにおいて無神論、つまり幻想的他者は存在しないという事実認識、に対する防衛として働き、そのことが、認識の帰結としての感情の平定を、喜びとして現出させる。