「人間と鉱物とに一貫する連続性」

そこには抜きがたく目的論的=神学的語りが残存してしまう。むしろ現代の生物学はだから、セントラルドグマは崩れ、たんぱく質の重要性に着目し、西欧形而上学的な、本質=発現モデルではなく、相互作用=交渉モデルのほうに近い。

派生物はだんだん劣化するという、ある意味では基本的なモデル。しかし現実の生成では、派生物は、派生と他者との交雑の結果として、本体=派生の形而上学ヒエラルキーを解体する傾向がある。本体=派生という構図は、派生が生成でもある場面においては有効性を失う。

進化論の眼目は、非目的論的過程が、目的合理的結果を、偶発的にではなく、必然ではないにせよ十分な蓋然性で、生み出すプロセスを明らかにしたことなので

ミンスキーが知的なものはそれ自体は知的でない諸部分の複合の仕方として説明されなければ説明したことにならない、と喝破したのも同じ昔の話で、知性を知性で説明したら「脳の中の小人」、循環論法、デカルト松果体になってしまう。思考実験としてはフィードバックループというものの振る舞いがいかに「半ばモノに属し半ばココロに属す」ような振る舞いをするかということの方がずっと刺激的だ。そこから逆に、ココロとモノの連続性が見えてくる。進化論は人間を動物の延長に位置づけるというのはただしいのであって、しかし、かつて花田清輝がいっていたように、もうそこをつきぬけて、人間と鉱物とに一貫する連続性を見るべきなのだと僕は思う。精神はものからできているのだから、複数のモノとココロの中間形態が存在し、そこには、本質的な切れ目はない、というべきなのだ。その意味では、知性・人間中心主義は、たしかにインテリジェント・デザインのような「形而上学」と手を切れない側面を持ってもいる。徹底的に擬人化とは対極の操作として、鉱物の半-精神を見出す試み。精神によって鉱物を理解しようとする日本人の多神教的=擬人法的精神に抵抗して、鉱物によって精神を理解しようとすることが、理性の試みなのだと僕は思う。
 
擬人法的でアニミズム的な宗教的通念のもとで、ID論のようなタイプの形而上学を批判するのは比較的たやすいのだけれど、その批判そのものによって、自己組織化や自然淘汰のようなものが、何か神秘的で擬人的な、それ自体の意志や目的をもつものとして理解されてしまうのでは、なんというか、元も子もない、という気がする。

仏教的な、六道転変の思想が動物と人間の連続性を受容する精神性の背景にあるのであれば、ID論の危険とは別の、その日本地場在来の宗教的感性の危険というものもあるはずであり、それが、ぼくには、たとえば、セルフィッシュ・ジーン的な擬人化と関連しているように思える。