スピノザ『エチカ』がまったく厳密でないことについて

http://d.hatena.ne.jp/uumin3/20051112#p1

倫理とは簡単に言えば「何が善であるか」についてのある集団での共有される認識であって、しかもそれは純粋な形式としては導けないというのが今のところの倫理学の共通する考え方です。善とか悪とかの問題について、幾何学の公理のような体系を厳密な証明によって導きたいとする方々(「厳密主義」…倫理的な命題もまた厳密に証明できるとする立場。有名どころでスピノザ、カント、ベンサム…可能性を言っただけならデカルト、ロックも)がいまして、そこらへんについてはその後のみなさんが盛んにつついて結局うまく行きそうにもないという結論になっています。ムーアが『倫理学原理』(三和書房で訳書あり)で、善は定義できないとしたのも相当諸方に影響を与えたようです。

http://d.hatena.ne.jp/nuc/20051113/p8

http://d.hatena.ne.jp/uumin3/20051112#p1
スピノザのエチカは数学を使う人は、冒頭部を10ページくらい眺めてみるといいと思います。反面教師として。棲み分けで、中根千枝のタテ社会の場の論理をふと思い出しました。まあそんな話は置いておいて。

http://d.hatena.ne.jp/sheltering-sky/20051114/p1

ttp://d.hatena.ne.jp/nuc/20051113/p8

スピノザのエチカは数学を使う人は、冒頭部を10ページくらい眺めてみるといいと思います。反面教師として。棲み分けで、中根千枝のタテ社会の場の論理をふと思い出しました。まあそんな話は置いておいて。

なるほど、数学者から見ると、哲学の精髄である(と私は思う)スピノザの『エチカ』は「数学を使う人は冒頭の10ページほどを読んで『ああいうことをしてはいけない』と学ぶべきだ」という対象らしいですね。現代数学を諸科学に応用するような水準と比較すれば、スピノザが馬鹿げているように見えるに決まっています。

そんな表面的なところで評価せず、「スピノザ幾何学的体系には彼が記述したのとは別にもっと深い意図がある」という趣旨のことを述べ、形式的に展開される論理が形式そのものを脱構築してしまうスピノザの記述方法に注目したマルクスのような読み方のほうが生産的だと思いますし、あるいは『エチカ』の冒頭はアリストテレスのカテゴリー/類/種の論理に対するものとして読めるだろうと可能性を見出すGilles Deleuze『差異と反復』p.448-9などの方がまともだと思いますし、そもそも『エチカ』の冒頭などではなく第五部をこそ白眉とするDeleuze『スピノザ・実践の哲学』などを参照にすべきだと思うのは、まぁデカルト(国家数学者)に対するスピノザ(流浪の思索者)の心意気だと大見得を切っておきますか。

ちなみにスピノザと中根千枝を並列するのはさすがにまずいのではないかと。

http://d.hatena.ne.jp/nuc/20051114/p1

http://d.hatena.ne.jp/sheltering-sky/20051114/p1

なるほど、数学者から見ると、哲学の精髄である(と私は思う)スピノザの『エチカ』は「数学を使う人は冒頭の10ページほどを読んで『ああいうことをしてはいけない』と学ぶべきだ」という対象らしいですね。現代数学を諸科学に応用するような水準と比較すれば、スピノザが馬鹿げているように見えるに決まっています。

数学はヒルベルトから始まった、とためしに暴言を吐いてみる。

数学は脇を引き締めて、誰もが納得できる最小なステップだけを使うという、一見尤も遠回りに見える手法をとりました。そのことによって、いくらでも積み重ねられて、恐ろしいほど遠くまで行くことができた学問だと思っております。

スピノザのあれは定義が甘いので、{定理の引用は正確に、数学用語の適用は厳格に、論理の運びは厳密に}に、ほんの小さな傷がついただけに見えてもそれがあっという間に拡大して致命傷に至ります。

それと数学の自然科学への応用とは構図が違って、エチカが数学から借りたものは外見ですが、自然科学は結果を借ります。

某所に「十分に複雑な構造を分析する道具として、当然数学は非常に有効な道具になると思います。しかし、能力不足がゆえに知的さを演出する比喩に成り下がっているのは残念ですよね。」と書きました。構造主義の数学の用い方はきちんとしているようです。結果としてそれほど綺麗な構造がなかったとしても、それはそれでいいと思うのです。

人文科学にしても数学の定理を使うのはよいことだが、そもそも定理が適応できる前提が成立していないところでそれを使おうとするのは、困ったものです。たとえば、公理系が決まってないようなところで、不完全性定理とかいうなよ、とか。

しかし、まあ、エチカは読めなかった、ということです。あれはキリスト教倫理観がいる気がしますが。

「何の役に立つのかしら」そうアリスは思いました「数式も図式もない本なんて」

『エチカ』は数学的証明としてはぜんぜん駄目、のような話はもっと聞きたい感じはします。
 
とりあえずsheltering-skyさんのこのあたり。
アリストテレスの話は、たしか「対戦哲学史」にもあったな……。

スピノザ幾何学的体系には彼が記述したのとは別にもっと深い意図がある」という趣旨のことを述べ、形式的に展開される論理が形式そのものを脱構築してしまうスピノザの記述方法に注目したマルクスのような読み方のほうが生産的だと思いますし、あるいは『エチカ』の冒頭はアリストテレスのカテゴリー/類/種の論理に対するものとして読めるだろうと可能性を見出すGilles Deleuze『差異と反復』p.448-9などの方がまともだと思いますし、そもそも『エチカ』の冒頭などではなく第五部をこそ白眉とするDeleuze『スピノザ・実践の哲学』などを参照にすべきだと思うのは、まぁデカルト(国家数学者)に対するスピノザ(流浪の思索者)の心意気