サルトル × スピノザ

http://homepage1.nifty.com/kurubushi/card16725.html

意識の作用(反省作用)である。意識は、それによってモノがモノそのものであることを確認し、それとともに自分がモノでは「ない」ことを認識する。この「モノでない」ことが意識の自由の根拠である。モノはそもそも「自分がモノである」とも思わない。スピノザは石も意識を持てば自分は自由だと思うだろうと言っている。逆に言えば、人間も石も、意識=自由の意識を持つだけで大した違いはない、ということである。しかし、サルトルにとっては、この「意識を持つ」ということが決定的に重要であったのである。

サルトルの場合、想像力は現実を無化することによって(自由に)変革する能力として高く評価されるのである。スピノザでは想像力は現実を認識できないという意味で無に関わるものの、それは現実の変革にまで至る高い能力ではなく、単に認識の欠陥を示すものにほかならない。スピノザの認識目指すところは、むしろ必然性の認識なのである。しかし、サルトルからすれば、そのような認識(理性認識)は、モノに縛られた不自由な認識であることになるだろう。

http://homepage1.nifty.com/kurubushi/card23415.html