デカルト × スピノザ 情念について

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デカルトでは実体的、実在的に峻別されていた心身は、スピノザでは同じもの(実体)の二つの側面(属性)の派生物でしかない。
 このことは、両者の能動−受動概念に決定的な差異をもたらす。なぜなら、デカルトでは上に見たように、精神と身体とが相互に能動−受動の関係におかれたに対して、スピノザでは、そうした能動−受動は考えられない。なぜなら、精神と身体とは同じものの二つの側面であるに過ぎないからである。したがってスピノザでは、ある精神=身体が能動であったり受動であったりするのは、別の精神=身体との関わりを持つからであることになるのである。
 こうした両者の能動−受動概念の差異は、幾つかの点で、次のような結論の違いを導くことになる。
1)デカルトの情念論の目標が、精神=受動/身体=能動を逆転し、精神の身体=受動に対する支配権を確立することであったのに対して、スピノザではそうした治療法は不可能である。いわば、スピノザでは、デカルト的な操作主義が否定されていることになる。
2)では、スピノザ自身はどのような治療法を考えるのか。スピノザは、自然の中に存在する個別的な存在者である我々は(デカルトとは違って実体ではないから)、他者との関係を絶対的に絶つことはできないと考える。したがって、そうした関係から生じる感情を完全に克服することは全く不可能である。しかし、スピノザでは、能動−受動は同時に認識に関わりを持っている。つまり、我々が感情を正確に認識すれば、その感情は既に受動ではなくなるというのである。しかも、デカルトでは情念=パッション=受動であったが、スピノザでは感情(アフェクトゥス)は受動的なものばかりではなく、能動的な感情があるとされるのである。これはデカルトにとっては驚天動地の結論である。
3)デカルトの情念論は、上のような能動−受動概念に基づく以上、個々人それぞれの精神−身体の関係を基にした、個人的な道徳に関わるにとどまるのに対して、スピノザの能動−受動概念に含まれるのは、他者との関係の論理であり、ここからは社会理論にまで至る射程を持つことになる。