真偽や善悪と存在価値とは独立

真偽や善悪と存在価値とは独立だ。(中略)私自身は無翼で、どちらかといえば左翼的主張に共感することが多いが、哲学的関心はむしろ右翼の必然性にある。(共感と哲学的関心とはいつも逆転する。)
 
http://twitter.com/hitoshinagai1/status/528736180515258368

「哲学」に限ることはないのではないか。
自分の感情は理解できることが多い。
反省もできるが、自分がこうなるしかなかった、こうならざるを得なかった、なるべくしてこうなった、諸原因を、自分は多く知りうる。
自分だからこそ自分のことがわからない、という場合もあり、それはとても大事なことだが、自分に一番長く深く付き合っているのは自分、という意味では、自分のことは自分がいちばんよくわかっている、とも思える。
同じような意味で、自分によく似た人のことも、わかる。
自分に似ていない人のことはわかりづらい。
自分と正反対の考え方や生活をしている人のことは、わかりづらい。
だからこそ、関心が生まれる。自分と似ている人のことはよくわかるからそれほど関心はない(関心はないか?むしろあるのでは?)。
違うからこそ関心が生まれる。
なぜあのようになるのか?どうしてそうなるのか?ああなるにはどうすればいいのか?ああならないようにするにはどうすればいいのか?
今後自分がああなる可能性はあるのか?ないのか?
ああいうのはアホだ笑
ああいうのは死ねばいいのに笑
ああでない自分はすばらしい。
ああなれない自分は死んだ方がましだ嘆
と思わず思ってしまうこともまた避けがたいことなのかもしれない。
「嘲笑せず嘆かず呪わずただ理解する」とは言ってもそうもできないのが人間なのだから、嘲笑してしまったり嘆いてしまったり呪ってしまうことを馬鹿にしたりせず、嘲笑せず嘆かず呪わずただ理解しようと思っていても嘲笑して呪ってしまうことこそを理解すべき、なのかもしれない。
 
そもそもなぜ「嘲笑せず嘆かず呪わずただ理解する」でなければならないのか。
嘲笑したければすればいいし、呪いたければ呪えばいいのではないか。
嘆いたり呪ったりはしたくない。そうならないほうがいい。
嘆いたり呪ったりしても、嘆いたり呪ったりする原因は減らない。
理解しなければ、嘆いたり呪ったりする原因は減らない。
理解するには、嘆いたり呪ったりしているだけではだめだ。
ということは嘆いたり呪ったりしてしまう時にこそ理解する意志が発動するということか?
そういう意味では嘲笑はまた別ではないか。
嘲笑はしたくないことか、となると、確かにせずに済むならしないほうが良いと冷静な今は思えるが、嘲笑している人に対して、嘲笑はやめた方がいいと説得できる言葉があるだろうか。なんとなくないような気がする。
嘲笑は道徳的に責めるしか手がないのではないか?嘲笑そのものが道徳的ではないのだから嘲笑に道徳で説得できるとはとても思えない。