自分がまともではない

自分が人としてまともであるから結婚できたと信じているから、
結婚していない人を人としてまともだと思えないのだ。
 
http://dare kagakaku.hero kuapp.com/v/2014-10-21

上の文章が目に入ったとき、最初は、下の文章のような文章に見えた。

自分が人としてまともであるから結婚できたと信じているから、
結婚した相手がまともでないとき許せないのだ。

そして、どういう意味だ?と思った。
しかし実際に書かれていた文章は違った。
上の文章の1行目と2行目はだいたい同じことを言っている。
自分はAだからまとも=Aでない人はまともではない。
下の文章は、よくわからない、私にははっきりと判断を下せないものが含まれている。
まず、結婚したからといって、まともであるとは決められなくなっている。
というより、「結婚できたからまともである」と決めつける人、という批判対称自体が、すでに不安定になっている。そうでもないか。
上の文章は、まともな自分が結婚できてまともだから結婚できない人をまともでないなどと酷いことを考えてしまうのだ、という主張の単調さ(単調か?)が昨今のスピーチ情勢につながるようにも思われてきてしまい、警戒してしまう。もちろんこういう考え方は上の文章の本意にとって完全に的外れである。
考えるなら、下のような文章について考えたい、と思っているから間違えたのか、そうでないのか、わからないが上のような文章を、ついつい軽視してしまう弱点が、私にはあるような気がしています。
「結婚できた」は自分を成り立たせているあらゆる諸条件に適用可能であると考えた場合、上の文章は、能力主義に対する批判にもなる。自分はできない人とは違い、できる人だからできる、こう考えてしまうことは、さけがたい。
結婚できるということが、何かの能力だとしたら、結婚できない人にはない、その能力を持っているということであり、その能力を持つに至ったということには、なんらかの「まとも」性があると考えざるを得ないのではないか。そして、結婚できない人には、そのなんらかの「まとも」性が少ないと考えざるを得ないのではないか。
結婚するというのは確かにある種の能力なのかもしれないが、それは100m走が速かったり、情報処理能力が高かったり、消化吸収能力が高かったり、という人間の色々な能力のうちの一つであり、それを持っていることこそが人間にとって大事なこと、まとも、である、とは言えない、ということか。
だから、結婚できる能力を持たないことよりも、そのようないろいろな能力の中の一つに過剰な意味づけを行いその能力を持たない人をまともだと思えないことを避ける能力を持たないことのほうが、よっぽどまともだとは思えない、ということだろうか。
では、結婚できない人を低く見る、ことと、結婚できない人を人としてまともだと思えない人を低く見る、ことでは、どちらがより良くないだろうか。
結婚できない人を低く見る、ことがある状況下では不可避なこととして表れてきてしまうことに対する軽視がここにはないだろうか。
それとも、結婚できない人を低く見るようなケースなどない、という話なのだろうか。
そうではなく、結婚できない人を低く見ることがある状況下では不可避なこととして表れてきてしまうからこそ、結婚できない人をまともではないと考えることに対する警戒を怠らないようにしなければならない、という話だろうか。
そしてその原因は、自分は結婚できたというこれもまたある場合にはどうしても避けられない自信の持ち方から来てしまうのだ、という状況の深刻さを伝える話だろうか。
上の文章についての考えが足りなかったかもしれません。