目的のために手段を……

主張をすることに目的があるとすれば、ただ主張をすることだけにあるのではなく、主張に同意してくれる人を増やすこと、なのではないだろうか。
(だから私は主張なんかしない、という人も多いと思いますが。)
だったらその主張が、批判相手との違いを強調して相手を悪人で愚かだとみなし嘲笑したり怒ったりしているような内容だったら、ほとんどその目的は達成しない。
そんな内容の主張は、その主張を言わなくても賛成してもらえるような人がひたすらうなずく、ぐらいの役にしかたたない。
それどころかむしろ味方が分断されてしまうような結果になってしまう。なぜなら、そのような主張は決定的な違いのみを取り上げそこだけですべてを判断しその一点のみに置いて相手を完全な悪とみなし徹底的に責め上げこき下ろし笑い飛ばすようなことをしているが、そうした一点の違いなんて誰と誰との関係にもあり、取り上げようと思えばいつでも取り上げられるからで、日常的にそうしたことを考え行っていると、ちょっとしたことですぐにそうした違いが問題となり、違いが表面化すると、そこを先鋭化して攻撃せざるを得なくなるからだ。そうすることこそが正しい運動の姿であり私の信念だ、のようになってしまっているからだ。まあこれは嘘ですが。(誰にも賛成されない純粋な孤高の思想。数を増やすことだけが目的ではないのだからそういうのも楽しそう!)
人はまず第一に感情の生き物である。これも嘘ですが、そういう部分が大きい。
この主張に絶対賛成してくれないような相手にこの主張をどうやって聞いてもらえるのか、どうすれば賛同してもらえるのか、について、主張内容について考えるのと同じくらい考える必要があるはずだ。
ではなぜ、そのような主張、是非の前に相手の理をとことん考え、どこまでが自分と共通でどこからが違ってくるのか、その違いは何によるのか、等を織り込んだ主張を今まで見たことがないのか。なぜそのようなことになるのか。
それは見ている対象にないものねだりをしているから、もしくは対象をちゃんと見ていないからで、見るべき対象を見れば当然そういう主張はあるし、主張をちゃんと検討するれば当然そのような内容もある。それだけの話でした。