「隠微な連帯」?それでええやん

「相手と共通の土俵のない、田島氏独自の趣味」における「趣味」とはなにか。
もちろんそれは、「谷村新司」を良くないと思うこと、ではない。
そんなのは本当にただの趣味で、そのことについては問題ではない、と田島氏自身も書いている。
では永井氏の言う「田島氏独自の趣味」とはなにか。
それは、趣味について明示的に説明することそれ自体ではないか。
戸田山氏は明示しない、田島氏は明示する、どちらもそうするという趣味に過ぎない。
その趣味をどのように正当化しようと、それはやはり相手と共通の土俵のないただの趣味に過ぎない。
そのようなただの趣味に過ぎないことを理由に相手をファシストとまで言うのは、趣味が悪い、共感できない、ということだろうか。
田島氏はそこでただの趣味とは絶対に言わせないように説明を重ねてはいるが、ここはやや感情的になっているように読める。私は心情的には圧倒的に田島氏に共感を持つが、その自分の共感にはまったく自信がない。共感を持つ自分の気持ちが恥ずかしいところもある。
ただの趣味だけれども、その田島氏の趣味にあえて反論するとすれば、趣味を明言化するということはそれを正当化することになる、趣味をそこまで正当化する必要があるのか、その正当化の理由は、ということになる、のではないか。
谷村新司を好きか嫌いかということに、わざわざ明言化して正当化する必要を感じるのは、神経質というか貧乏性というものではないか。
もちろんそれはいかなる正当化も伴わず好き嫌いを言うさわやかさに共感を感じるからであって、理由も言わずに互いに目配せして「だっさいよなぁ」「理由を言う必要すらないよ」「うわっ反論してきた。こいつ必死か」と考えるようなこととは全く別です、そんな人は田島氏に徹底的に批判されればいい。
(ただ、その批判は有効だろうか、という気はする。「「隠微な連帯」?それが?」になるような気はする。)
いかなる正当化もせずそんな正当化の理由も意義も「忘れ」、ただ、好きになんかなるかと思ったことがある、となることは、十分ユーモアを感じられること、善きこと、と言える余地があるのではないか、と思えなくも、まあなんとなくは、ない。
これは日記ではありません。