実感が先、実感は後

これいい!と思うことが出発点のことしかない、のではないか?
最初に、これダメだ……と思ったことが、だんだん良くなってくる、いろいろ考えたり知っていくうちに良いとわかってきた、ということなんて、本当はない、のではないか。
ということは、最初の印象がすべてで、あとは、その印象の理由づけ、その理解、だけなのか。
と思いそうになったのですが、最初は印象悪くて、あとで大好きになったものもある、ということに気づきました。
それがハロプロのコンサートやミュージカル(というか「リリウム」)なのですが、ハロプロ見てなかったら、最初は印象悪くてあとで好きになったものの例を思いつかなかったような気がして怖い。
 
ハロプロ経験がなく、最初は印象悪くてあとで好きになったものの例を思いつかなかった場合どうなるのか?
これは、いまは「最初は印象悪くてあとで好きになったものの例」を思いつくからこそ、思いつかなかった時のことを怖いと思えるのであって、経験がなければ、いまも経験がないのであり、怖いと思うこともそう判断することもできないから、そういう想定は無意味なのか?
それとも経験のあるいまだからこそ、経験があるないという空間を想像できるのであり、そのうえで経験のないことを想像できるのだから、やはり有意義なことなのか?
 
Π(パイ)の数字の羅列の中に、現在は発見されていない「777」というつらなりがあるかどうかは、計算する前にあらかじめきまっている。とは言えない、とウィトゲンさんは言いましたが、それと同じようなことでしょうか。