「言葉で表せない」ということは結論ではなく主張であると感じられるという姿勢

「A」という状態に至る過程、「A」という状態になる原因、理由を、言葉で表せるかもしれないし、表せないかもしれない、表せてもいいし、表せなくてもいい、のだけれど、考えたり体験したりした結果、たまたま、言葉では表現できないことがわかった、という結論に至った、ただそれだけのこと、のように思えるのだが、なぜか(文字通り、なぜか)、「言葉で表せない」ということは、そういうことではなく、なんらかの主張である場合が多いように感じられる。つまり、「言葉で表せない」ということは、白い色のカラスが日本に存在するかどうか、という問題や、チューリングマシン無理数を表現できるかどうか(これで表現合ってますか)、という問題と同じような種類の問題ではなく、言葉で表せるわけがないのだ、言葉で表されてはならないのだ、という思惑、というか、情熱、のようなものが伴う問題であり、だから、「言葉で表せない」という問題は、言葉で表せるかもしれないし、表せないかもしれない、表せてもいいし、表せなくてもいい、という姿勢で臨むと的外れだし、白い色のカラスが日本に存在するかどうか、という問題や、チューリングマシン無理数を表現できるかどうか(これで表現合ってますか)、という問題の解明と同じような姿勢でいどむと、その問題の問題性、窮所を、捉え損なう、のだとしたら、「言葉で表せない」という主張は、いったいどのような主張なのか。