日記

どうせ死ぬし、どうせたいしたことはできないし、どうせ…
と思うと何をやってもむなしいが、どうせ死ぬし、どうせたいしたことはできないし、どうせ……、ということについて考える時だけは違う、とはいえる。
哲学は、対象の問題性が最優先だから、ある意味では、どうせ、に勝つことはできない。そんなことを考えてもどうせむなしい、というわけだ。
そんなことを考えてもどうせむなしい、を考える暇がないほどその問題性に夢中である以外哲学をする余地はない。
仏教、特に禅は、まさしく、そんなことを考えてもどうせむなしい、について考えるので、どうせからは逃れられる。その意味では哲学性は低い、かというとそうでもない、ような気がする、ところが、一石二鳥、という感じがする。
となるとこの一石二鳥性は、たまたまではなく、必然なのか、やっぱりたまたまなのか。