なぜ座禅をするのか

『座禅の意味と実際』を読んでいます。
何かのために、何かの役に立つから、座禅をする、のではない、座禅をすることそのものをするのである、というのは大変よくわかりますし、その通りでしかない、と私でさえも思いますが(思うことができますが)、では、なぜ座禅をわざわざするのか、という問いには答えられなくなってしまう、のではないか、と思いました。
座禅をしながら生まれてきた人はいないし、息を吸うように自然と座禅をしてしまう、ということはできません。と同時に、どんな意図もなく自然と行われなければならない、そしてまた、座禅は自然に行われるようなものであってはならない(「それをすっかり断滅しきってしまうことが座禅の目的ではない」)。座禅は、しようという明確な意図なしにはできないことですが、ではなぜ、座禅をするのか、となると、何か目的があってするしかない。座禅をしたいからする、というのはすでに、何かの目的(座禅をしたいという目的)のためにしているのだから、座禅の意義から外れてしまいます。なにかのためにするのではない、以上、始めることすらできなくなってしまう、のではないでしょうか。座禅を始めるときは仕方ない、ということでしょうか。
座禅をするとこんないいことがあるよ、ということは、本書に明確に書かれており、なるほどそれはいいことだ、そのために座禅をしよう、と思うことができます。私もそのために座禅をしたくなりましたが、こういう目的をもって座禅をしてもダメなんじゃないか、だめになるしかないのではないか、ということになります。
 
ということはともかく、まあだめではないんじゃないの、やってよいならやればいいんじゃないの、やってるうちに良くなっていくんじゃないの(良い、というのもどうかと思いますが)、という感じはありますので、座禅をすればいいのではないかと思います。
目的の問題や、その他ロダンの考える人の姿勢は血の巡りが悪いが座禅の姿勢は血の巡りが良くて素晴らしいとほめるところ、言語の問題、など永井さんおすすめなしには私にはとても読み進めるのが難しい本でもありますが、永井さんおすすめということで読んでみようとおもいます。

私が哲学的に優れていると思うあまり有名でもない仏教書を一冊。内山興正『坐禅の意味と実際』。禅僧が坐禅のやり方を解説した小冊子にすぎないが、哲学の「て」の字が何回も感じられるその意味でも大変な名著。『正法眼蔵』を別にすれば随一。

https://twitter.com/hitoshinagai1/status/429495943973445632

私は主著と目されている『自己』よりも『坐禅の意味と実際』の方に決定的な哲学的洞察を感じる。むしろ『自己』の方が宗教書で、それゆえ(と言いたいのだが)驚くほどキリスト教的。

https://twitter.com/hitoshinagai1/status/429795900450304001

 

坐禅の意味と実際―生命の実物を生きる

坐禅の意味と実際―生命の実物を生きる