宗教が自らを絶対正しいと言ってもそんなことどうでもいい

「宗教が自らを絶対正しいなどと言わなければどうでもいい話である」。
ということですが、別に、宗教が自らを絶対正しいと言っても、どうでもいいのではないでしょうか。
「この宗教(どういうわけかカルト宗教は自分を宗教とは自称しないところも少なくない。「宗教」というのはやはりオカルトで非科学的で正しくないという意味合いが自分でも感じられるからだろうか)は絶対正しく、他の宗教は誤っている、科学は間違っているか、仮に正しくても物事の非本質的な面だけを見ている、この宗教は絶対正しいので疑問を持ってはならないし批判する人は間違っているしバチが当たる」という教義を持っている宗教など掃いて捨てるほどある。
いちいち目くじらを立てるほうがどうかしている。世の中にはもっとひどいこと取り上げなければならないことはいくらでもある。
ある政党や政治家がいかにダメかについて熱く語る人は多いし、政党や政治家について語ることはとても意義のある大事なことですが、そういう人を冷ややかに感じる気持ちもある。
いろいろ勉強して、宗教的感情、宗教的現象が人間にとって不可避だとわかったから、宗教を認めるのか、というと認めるはずがない。
いろいろ勉強して、自分の中にも実は宗教的感情や意志が隠れていたことがわかったら、宗教を認めるのか、というと認めるはずがない。
いろいろ勉強して、宗教的教義は明らかに間違っているが、そのおかげでこの社会がうまくいっている部分もある、ということがわかれば、宗教を認めるのか、というと宗教は認めるかもしれないが、だからといって、教義が正しいことになるはずがない。教義が正しいことになるはずがない、と言うことが社会に悪影響を与えることになるかもしれないのなら、言わないほうがいいかもしれないが、言わないほうがいいからといって、教義が正しいことにはならない。
そういう宗教について私がまともに学べるとは思えない。否定すべきを思っているものをいかに説得力を持って否定し根絶するか、しか考えられないからだ。