「師には絶対従うべき」

「宗教に限らず武道だってお笑いだってそうではないか、何か自分を超えたものを学ぼうとする以上こういう姿勢は当然の、普通のことではないか、という主張があるとする。
まず、では、宗教=武道=お笑いなのか?と問うと、絶対そうではない、と答えるだろう。
この、「絶対そうではない」というところが、宗教の問題、宗教を問題としなければならないところなのだから、「宗教に限らず武道だってお笑いだってそうではないか」とか「普通のことではないか」とは言えない。
宗教は自らの絶対性、絶対的正しさを主張しながら、その正しさを説明しようとすると、絶対的でない説明にならざるを得ない。説明というものが本来そういうものだからだ。
宗教が自らを絶対正しいなどと言わなければどうでもいい話である。武道もお笑いも自らを絶対に正しいなんて誰も主張しない。
 
では、仮に、そういう姿勢が正しいとした場合、その正しさはなぜ正しいと判断できるのか?
オウム真理教に「絶対従う」のは間違っている。オウムではない宗教に従うのは正しいのはなぜか?
結局ここでも「普通」の基準、その宗教外、師匠外の基準で判断するしかない。どこまで行っても基準は普通であらざるを得ない。
 
誰もが理解できない、その宗教に入って信じているものにしか理解できない正しさの基準があるとする。
その宗教に入っているものが全員病気ですぐ死んだり、すぐに怒ったり、その宗教外の人とトラブルを起こしたり、しているのに、その宗教が正しいと言えるだろうか。我々にはわからないけどもしかしたら正しいかも、と言えるだろうか。言えるとしたらどういう基準で言えるだろうか。
結局、正しいとか幸福とかいった基準は、我々の側にしかない。我々の側にはない、どこかにある、特別で、特別な人しか理解できない基準などありえない。でも、もしかしたらあるかもしれない、のではない。そういうもしかしたら、に意味を与えることすらできない。正しいとか幸せとかいうことは、そういう意味でしかない。理解したいけど理解できない、と言うことすらできない。言おうと思えば言えるけどそれは何も言っていない。
 
誰にも理解できないかもしれないけど私はこの人を信じるからついていく、ということはもちろんありうる。そういうときに、自分やその人の正しさを誰かに宣伝できるだろうか?宣伝したくなるだろうか。」
という考えに反論してこの主張の基盤を考えます。