宗教に対する批判

(まず最初にものすごく単純な話から)
「宗教についての批判は終わっている」という意味では終わっているのでもう特に真剣になる必要はなく単に説得の技法の問題ということになります。もちろん知的で理性的な批判が必要になる場面は多い、というか、知的で理性的な批判によって建設的に話が進むということがすべての前提なので、これは当然必要です。
問題は、知的で理性的な説明をいくらしても、納得しない人はいくらでもいる、ということで、そういう人の納得はどこにあるのか、というと、もちろん知的で理性的な説明にはありません。
ふわふわと世間に流されているように見える人でもみな何らかの信念の核になるようなものを持っている、というなんとなくの世間的実感がこれまでの経験からはあり、人間的能力に関係する部分にそれを持っている人なら知的で理性的な説明が受け入れられるが、人間的能力が全般的に低いと自覚している人は、知的で理性的という能力を前提とする価値にさらにコミットしても自分の能力の絶対的低さをあらためて確認するだけなのでそうすることができにくいのか、自分だけが触れる機会を得た特殊なものをその核とする場合があり、それが宗教的なものになりやすいのではないか。(とはいっても高学歴高収入宗教者というのも多いが高学歴には高学歴、高能力者には高能力者ならではの無力感というものがあるのだろうか。)
だからそういう人に知的で理性的な説得を試みれば試みるほど逆効果で、理屈の上でそうは言えるだろうが、私は納得できない、どこかに穴がある、それはそうかもしれないがこれはこうだ、今は言えないが教祖ならきちんと言ってくれる、のような反応になってしまう。納得の底、というか、理解の到達点が知的で理性的な説得を試みる側にはないのだからいくらやっても無駄、むしろ態度をかたくなにするだけ、ということになる。
それでも本当に何とかしたいのなら、脱洗脳的な技法が必要になるのだろう。そこまでするのか、する必要があるのか、しても許されるのか、となった場合、考えることはもちろん知的で理性的な説得の次元にはない。
 
迷信的な医療よりも現在の近代的な医療のほうが良いという根底的な前提、隣の県と殺し合いをしていた時代よりも少なくとも隣の県と殺し合いをしていない現在のほうが良いという根底的な前提、があり、そういう進歩を信じるなら、すでに終わっている宗教を信じない人がほぼ100%になるほうが良い、と私は思っているのですが、そのためには、能力が低いという自覚のある人をその能力の低さへ徹底的に追い詰めてはいけないと思っています。何らかの形での「誇り」の保護、現実的な次元における力の確保、は必要ではないか。私が東大を大好きなのも、東大を宗教的に好いているからです。