日記

私が子供連れの夫婦の近くを歩くといつも、親が子供と私の間にさりげなく移動したり、「よしダッシュだ!よーいドン!」と子供に私から離れる方向への素早い移動を促したりされる。危険な人間を最も敏感に見抜く能力を得ることができる時期の人間にそう判断されることは、私にとって一番の勉強になる。
 
 

米国で17歳の黒人少年を射殺した白人男性が正当防衛として無罪になった事件を巡って、オバマ米大統領は19日、ホワイトハウスで「少年は、35年前の自分だったかもしれない」と記者団に語った。

 オバマ氏は「自分を含めほとんどのアフリカ系アメリカ人が、(盗みをするのではないかと)デパートで後をつけられた経験や、道を歩いている時に車のドアをロックする音を聞いたことがある」と自らの体験を打ち明けた。裁判の手続きは適切だったとしつつ、「アフリカ系アメリカ人社会は歴史や体験を通じてこの問題をとらえている」と、各地で起きた無罪への抗議デモに一定の理解を示した。

 事件はフロリダ州で昨年起こり、トレイボン・マーティンさんを銃で撃ったジョージ・ジマーマン元被告が殺人罪に問われたが、13日に陪審員が無罪を言い渡した。
 
 
オバマ氏「射殺の少年、自分だったかも」 差別体験語る

 
 
血の滴る包丁を持ち、目を血走らせている人間が歩いていたら、近づきたくないと思うのが当然で、本当は、ふぐをさばいている途中で窓から急に入ってきた猫にふぐを取られた人が猫が毒を食べてしまうのを心配して猫を捜しているだけだったとしても、その人に近づかないという選択をした人は責められるべきではない、とは考えられる。
問題は、この比喩が、避けた人は責められるべきではないというゴールを目指して作られた比喩なのでまったく説得力がない、ということにある。つまり「毒矢の例え」では何も説得できていない。病の原因を探ることが最も重要だという局面、いきなり矢を抜くことこそ致命傷につながる状況、をいくらでも考えることができるからだ。あるいは、事態に対して何も考えさせず自分たちは良いと思うが他の誰も良いと思わないようなことを拙速にやらせようとするために「毒矢の例え」が利用されているだけ、とも考えることができる。例えを使って何かを主張することは、ほとんどできない。