論理は語れないか語れるか

『論考』から一貫してウィトさんは、論理は語れない、写像は語れない(「語りえないことは沈黙しなければならない」)、(言語の)意味について語ろうとすると知性が痙攣する(『青色本』)、と言っていますが、『こう考えた』で鬼界さんは、それは安易な神秘主義であって、論理は語れる、と書いていました。
論理は語れる、のかどうかはともかく、ウィトさんを含め、「分析哲学」のみなさんは、論理を語りまくっているわけですし、ウィトさん以後もますます精緻に論理を語っている、ということなのかな、と『意味・真理・存在 分析哲学入門・中級編』を読みながら思ったのですが、ラッセルさんが『探究』を読んで「天才が凡夫に成り下がった」( http://www.sdi-net.co.jp/anti-computer-20040222.htm )と言ったのと同じような