幻触はある、のか?2

薬物中毒になったとき、虫が体を這うような感覚になることがあるという。これは幻触ではないのか?
ということですが、このときはすでに幻視も同時発生しているのではないでしょうか。
もちろん、可能性としては、幻視があるように、虫が体を這うような感覚になるという幻触も十分考えられますが、幻触が発生しているときは幻視も幻聴も発生していそうだという感じがあり、つまり、幻触はないのではないかという考え方はすでに「世界像」的認識を含んでいるように思えます。
幻触が起こるような状況になったら、もう、なにを幻覚でないとすればよいのかわからないような状況なのではないか。見てもにおっても信用できないから触って確かめてみて、その触った感覚すら幻覚だった、のなら感覚器官すべてが信用できなくなるのではないか、という。
そういった、世界像的触覚観ではなく、幻視があるように、<可能性としては>、虫が体を這うような感覚になるという幻触も十分考えられます。
幻視だって普段はめったに起こらないのだから、幻視は十分考えられるという<可能性>を考えに入れているのだったら、当然幻触も考えてもよさそうです。
ここで先に問題にした、幻視とは、例えばどういう状況なのか、ということが重要になるように思います。
前回、幻視は「遠くから見たらAに見えたけど近づいてよく見るとBだった、のように表現される」としました。しかしこれは幻視というよりは、日本語の普通の感覚だと、見間違い、です。
幻視という日本語にふさわしいような状況を考えると、机の上にピンクの像が踊っているのが見えた、というようなものではないでしょうか。
このような幻視が見えたときは、幻聴も幻臭もしていそうな気がします。つまり、世界像的にあり得ない、つまり、幻覚というよりは、まるで夢を見ているときのような感じがします。
これは幻触の例としての「虫が体を這うような感覚」に対応するものではないでしょうか。
つまり、「机の上にピンクの像が踊っているのが見えた」「虫が体を這うような感覚」というのは幻覚の例ではなくて、夢の例ではないか。そして、幻視の例としては、「遠くから山道を見たら蛇がいるように見えたが近づくとそれは縄だった」というものであり、これに対応する幻触の例がない、ということが、触覚の独自性であり、幻触がない、ということの本質ではないでしょうか。

問題

「机の上にピンクの像が踊っているのが見えた」にしても「虫が体を這うような感覚」にしても、「いやそんなはずはない」と思い頭を振って深呼吸したらピンクの像も見えなくなり身体を這う虫の感覚もなくなる、という、幻視幻触にふさわしい状況も十分考えられる。ので上の考え方もあやしい。