わからない、知らない、無知、騙される、隠す、ほうがいい場合もあるのか?

エレベーターホールからそれぞれのエレベーターの現在位置がわかってしまうと、客は「あ、無視して通過された」と思ってしまう(まぁ実際そうなのだが)。もちろん他のエレベーターがフォローに来るのだが、一番速く来そうなエレベーターが自分を無視して行ってしまうのだから、これは怒る人もでてくるだろう。それが結果的に全体の待ち時間を減らすことになるとしても、お客さんに理解してもらうのは無理だ。

よって、効率のよいエレベーター運行のためには、それぞれのエレベーターの現在位置を客から隠すことが必要になるのだ。

d.hatena.ne.jp/keisukefukuda/20100728/p1

つまり、オープンな社会・情報開示が必ずしも最善ではない、ということですな。
知識あるいは論理的思考のない人に対して余計な情報を見せるべきではない…と
大量の人間の動線を整理するとき、全員に情報が行き渡りすぎても問題であるなら、情報化が例えば大量の人間が動く災害時などに不利な結果をもたらす可能性とかは研究の対象になるやも知れぬ
b.hatena.ne.jp/entry/d.hatena.ne.jp/keisukefukuda/20100728/p1

ニセの「バス停」で騙すのは、ちょっとかわいそうな気もする。しかし、外へ出れないように閉じ込めてしまうよりは、たしかにこのほうが、入居者を人間として尊重している。「外へ出たい」という思いを、ひとまず実現させてあげて、バス停に導く。少しのあいだバス停で待っているうちに、「これで家へ帰れる」と思い、気持ちが落ち着く。そこで声をかけ、「中で待ちましょう」と施設に戻す。ひとつひとつのステップを、強制でなく、本人が納得できるように進めている。できるだけ強制せず、本人の意思で行動させることで、人間の尊厳を守っているのだ。

mojix.org/2012/08/26/alzheimer-bus-stop

 
結論から言うと、ありません。
ありません、と言うと、まるで(個人的な)意見、あるいは主張、を言っているように聞こえるかもしれませんが、これは(個人的な)意見でも主張でもありません。「いい」か「悪い」かが問題になる限り、あり得ない、ということです。
エレベーター運行が効率がいいかどうか、平均待ち時間が最も短くなっているかどうか、平均待ち時間が最も短くなっていることが良いかどうか、多くの人間が動くときに個々の人間はどう動けば良いのか、バスが来ないバス停でバスが来ると言って待たせることが「人間の尊厳を守っている」のかどうか、誰が決めるのでしょうか。情報を隠している側や嘘の情報を伝えている側ではありません。少なくとも、情報を隠している側や嘘の情報を伝えている側だけではない。そうされることが良いかどうか、そうされないことが良くないかどうかを決めるのはあくまで我々の側にあります。あらざるを得ません。我々がどう思うかどう感じるかどういう価値観を持っているかに関係なく、騙す側隠す側が思うことが正しく、騙す側隠す側が感じることが正しく、騙す側隠す側が価値があると認めることがその価値を保証するのではありません。
こう書くとまた主張のようになってしまいますので書き直します、つまり、誰からも理解されない隔絶したところに良さは存在することはできない、どうしても我々が良いと感じるところと関係する部分にしか良さはない、ということです。我々にはそれを理解する知識も頭脳もないから理解できないけれども、我々には理解できない良さというものがある、のだとしたら、そもそもそれを目指す理由がなくなってしまいます。もし理解できないにしてもそれを目指す理由があるのだとしたら、どうしてもそこで良さと結びつくしかないわけです。どんなにかすかであれ、我々の理解できる良さと結びつくのなら、我々は隠されてはいないし、騙されてもいません。その点において、我々は全面的に、隠されるべきではないし、騙されるべきではない、ということになります。
我々の理解できる良さを実現する手段として、個々の局面ですべてを知っていなければならないわけではなく、むしろ積極的に知らないことがあったほうが良い、というのであれば、テレビやパソコンの説明書にはその動作原理が(とりあえずの操作には不必要だから、わざわざ書くのが面倒だから)詳しく書かれていない、日本語50音をすべてひらがなで書き出すのならあいおうえかきくけこの順に書くよりもまずあかさたなを書いたほうが早く書ける、ような気がする、という程度のことであって、それは決して、「知らないほうが良いこともある」とか「騙すほうが良い場合もある」とわざわざ、さも大事なことを発見したかのように言うことではありません。これはただ、一連の物事においてどこを重視するのか、その部分の違い、それだけの問題ではないのか、上のエントリで問題にされているのはまさに「個々の局面」での話(あかさたなを先に書く方法を採用する緻密な技術的根拠)であって、根本的な価値を決める場面の話ではない、のではないか、という気もしますが、そうではないです。
「知らないほうが良いこともある」「騙すほうが良い場合もある」ということがわざわざ積極的に言われるとき、そこでは必ず、良いかどうかを決める最も根本的な価値判断が奪われているからです。奪われていないにしても、奪われるような方向へ動き出す第一歩だからです。
「知らないほうが良いこともある」、「騙すほうが良い場合もある」、考えないこと、無知・無垢、こうしたことが称揚されているとき、我々が何を良いとみなし何を良くないとみなすのか、それすら奪われているということを決して忘れてはなりません。だから別に忘れてもいいです。これは意見でした。
 
要領を得ない説明、不適切な例を出してすみませんでした。知らせない・だますということは、目的に対する非本質的な些事に過ぎない、ということであり、知らせない・だますということを本質にしてはいけない、本質にはなりえない、ということです。それなのに、まるで知らせない・だますということが本質的に採用される場合があるかのような言い方になってしまうことが問題だということです。