日記

一週間ほど前から『ウィトゲンシュタイン入門』を読みなおしていて、相変わらず、何度読んでもなにが書いてあるのかまったくわからんなぁ、と思いながら読んでいるのですが、前期、論考の部分に関しては、これ以上いくら読んでも、この本の情報だけでは、おそらく理解できないという部分を何箇所か特定せざるを得ませんでした。中期後期に関しては、読んでいくうちに今後さらに理解できる部分が増えそうな気が、まだ、します。
1995年の発売以来読み続けているのですがいまだにわからない部分が多いのですがそれでも読み続けられるのはなぜかというと私の理解力が適度に低いせいだと思います。「〜入門」というタイトルの新書の入門書なんて、一度読んだらすぐに次に進むべきもので、こだわって何度も読むなんて害しかない、のかもしれませんが、まったく理解できないほど難しくもなく、完全に理解できたと言わないまでも、おおよそ理解できてもう読まなくてもいい次に進むべきと納得できるほど簡単でもない、という状態を、15年以上続けている、ということは、このあたりが私には合っている、ということでしょうか。このあたり、というほど合ってはいない、ここでも十分高度すぎる、だからこそ理解できない、のだとは思いますが。
 
たとえば、入門書の性質として、通常、もしくは、ただ理解されやすさだけを考え、記述の狙い文字数の多さおもしろさをまったく無視するとすると、
・解説A→解説Aの例としての引用B→引用Bの解説→Bの中に見られるAの指摘・Aの再説明
という解説の流れがあると思いますが、この『入門』で見られる解説は上のようにはなっておらず
・解説A→解説Aの例としての引用B→ABよりも先に進むとCが言えることの説明・ABを否定するCの解説
となっていることが多いのです。
上のように書かれていれば、Aの理解があやふやでも、BによってAの理解できなかった部分への理解に気付き、それによってBの理解も深まる、ということにもなりそうに思えるのですが、下の『入門』ように書かれていると、Aの補足としてのBを期待してもなぜAの説明をするのにBが引用されているのかよくわからず、それを期待して後に続くCを見てもCでは発展的な説明に移行しているのでAとBに振り返ることもできず、しかもAとBとCの関係がどういう関係なのか私には不明瞭な部分が多く、なぞが深まるばかりなのです。文章としては下のほうが断然スリリングでおもしろい、ということになるのかもしれず、そこが他の入門書解説書にはない『入門』独自のおもしろさにつながっているとは思います。
永井さんは「よく考えれば、必ずわかるように書いた」「疑問やためらいの跡は、すべてぬぐい去って、単純明快な本に仕上げた」とわざわざ書いてくださっているが、私には単純でも明快でもなく、理解できてもいません。もちろん、私は全然「よく考えていない」ということもあるかと思います。私は「よく考える」力に乏しい、というところがあり、ここをどうするか、です。
 
前期は、この本の情報だけでは確実に理解できないだろうという部分はあるものの、いくつかの解説書入門書を読んでそれなりに気付いたり理解できた部分もあったのですが、それでもいまだに、その意義、『論考』の何が画期的なのか理解できず、何箇所かの例外(写像自体は写像されない、等)を除いて、ほとんどワクワク感を感じない、興味のない情報が詰め込まれた教科書を読まされている感じ、なのですが、中期後期はかなりおもしろさを感じられ、特に、前期→中期、中期→後期の以降期、この以降が特に詳しく書かれていることが『ウィトゲンシュタイン入門』の特色ということにはなると思うのですが、が特に、ウィトゲンシュタインの考えへの理解、前期→中期なら、ここを考えることが、前期と中期の理解を、より深める、ように思え、特におもしろく感じます。
というわけで、今後は、前期→中期の写像→文法、つまり、『論考』の後〜ケンブリッジ復帰時、『ウィトゲンシュタインウィーン学団』『哲学的考察』『ウィトゲンシュタインの講義I ケンブリッジ 1930-1932年』あたりを読んでいこうと思います。

ウィトゲンシュタイン全集 5 ウィトゲンシュタインとウィーン学団/倫理学講話

ウィトゲンシュタイン全集 5 ウィトゲンシュタインとウィーン学団/倫理学講話

ウィトゲンシュタインの講義〈1〉ケンブリッジ1930‐1932年―ジョン・キングとデズモンド・リーのノートより (双書プロブレーマタ (3-2))

ウィトゲンシュタインの講義〈1〉ケンブリッジ1930‐1932年―ジョン・キングとデズモンド・リーのノートより (双書プロブレーマタ (3-2))

ウィトゲンシュタイン全集 10 講義集

ウィトゲンシュタイン全集 10 講義集