何をしたいか、ということについての誤解

さあ行け 未来は渡さない
愛の力 愛の叫び
そうだ
"言われたからする"でなく
"皆がしてるから"でなく
この手がつかむ
元気な未来
LOVE & PEACE

野球をしたいという場合、それは、プロ野球で一番野球のうまい選手になりたい、ホームランをたくさん打ちたい、ピッチャーの投げる球を最もうまく打つ選手になりたい、ということではない。サッカー選手になりたいという場合、最も上手くゲームを組み立てられる選手になりたい、最も多くゴールを決めることのできる選手になりたい、ということではない。数学者になりたいという場合、数学的真理を極めたい、という意味ではない。サラリーマンになりたいという場合、月給を得たい、という意味ではない。「<私>」について考えたいという場合、社会的に意味のある雑事を一切しないで私が興味ある「<私>」についてのみ集中して考えたい、という意味ではない。ということを今までかんがえたことがありませんでした。そうではなく、自分はどういうやり方で社会的諸関係を結びたいか、ということでしかないのではないか。高校野球の強豪校の監督が家庭で役割を与えられその分担をしっかりこなすことを必要な第一のこととして挙げるのは道徳教育的効果を狙ったわけでは決してなく、野球が強くなるために必要不可欠なことだからなのではないか(という考え方をもちろんHSMさんやWTNBさんはつまらないと言うでしょう)、と思いそうになったところで上の歌詞にこの夏中野で首を振りながら(ちょうど上の歌詞が歌われるところで首を振る振り付けになるのです)おおいに感動し涙を流しました。
「"言われたからする"でなく」「"皆がしてるから"でなく」
ではなんのためにするのか? 言われたからでもなく誰かがしてるからでもないことをすることが本当に可能なのだろうか。
だれもやりたがらないことでも誰かがやらなければならない、という場合、誰もやりたがらないことを自分はするという形で社会的関係を結ぶ、という場合と、やりたがらないことをしているのでできればやりたくない、という場合があり、それぞれです。