痛みは対象の名前ではない

「痛み」は「表出」だ、と言われても、それだけだとなかなか納得しにくいというか、自分でそういうことを言っても、そういうあらかじめある思想を当てはめてるだけ以上には思えないでいましたが、「内観の対象知覚的解釈に対する批判」、つまり、「痛み」は、何かの名前ではない、ということと結びつけると、わかりやすい、ということになりそうだと思いました。むしろこのことと結びついていなかった、ということに落ち込むべきだとは思います。

ところが、誰かに説明する場面を思い浮かべながら、このことを考えていると、実は難しいのではないか、という気になってきました。
「痛かったら痛いのであって痛いと思ったけど痛くなかったということはありえない」ということについて、まさにそのとおりだ、これでわかった、と思っていたのですが、果たしてそうでしょうか。これを他人に説明することを考えると、これはじつははっきりした話ではないような気がしないでしょうか。もしくはこれを、はっきりした話ではないような気がすることは、どのようにポイントを外してしまっている理解なのでしょうか。

・痛みは対象ではないということを明確に説明できるか
・痛いと思っていたら痛くなかった、ということはあるのではないか?
・痛いと思っていたらかゆかった、ということはあるのではないか?
・痛いと思っていたら冷たかった、ということはあるのではないか?
・「痛いと思っていたら痛くなかった、ということはある」という理解は、どのようにポイントを外しているのか
・「痛いと思っていたらかゆかった、冷たかった、ということはある」という理解は、どのようにポイントを外しているのか

・「痛いと思っていたら痛くなかった、ということはある。痛みが対象であるような場合の痛みもある。」ということなのではないか。