日記

リスク分散
自分だけが幸福なわけではないし、あのひとだけが不幸なわけではない。いつも楽しそうな私にもつらいときはあるし、いつも深刻な顔をしているあの人も楽しそうに笑っているときはある。楽しい場で楽しそうな顔をしているからといって楽しわけではないし、つらい場所でつらそうな顔をしているからといって完全につらいわけではない。場所Aでつらくても、場所Bに移動すれば楽しいことがある。場所Bが楽しくても、場所Aに移動すれば楽しいままとは限らない。
職場が山で自宅も山親戚の家も同じ山で友人のうちも同じ山、ならまだいいかもしれない。職場が山で自宅も山、それだけ、ということもあるかもしれない。しかも自宅が職場内にある、という人もいるかとおもいます。その場合、職場でつらいことがあると、そのつらさを生み出した諸状況諸関係が長い間続きやすい。人は長時間続くつらさを経て成長する、のかもしれないが、心を休める瞬間があったほうがいい、ようにも思える。山の職場から街の自宅に戻り、家族が迎えてくれると、山での楽しかったり悲しかったりする状況を生み出した諸関係がいっきにリセットされ、自宅では自宅なりの切迫した諸状況緒関係の中にいきなり取り込まれることを感じないでしょうか(私はひとり暮らしなので家庭はありません)。たとえ自宅での家族がつらい状況にあっても、職場とは異なる諸関係があるということが、足場のひとつになる、ように思え、精神的な安定を保つ方向に作用する、ように思えます。ひとり暮らしだとそういう事が起きないので、外での状況をそのままうちに持ち込み、次の日もそのままということが多いです。ただ、寝る、ということの没入感、逃避、昇華、解放というのもありますから、まったくそのまま引きずることは少ないですが、生身の人との関係があるということの、関係に絡め取られる感に勝ることはなかなかなく、そうするためには、それなりの訓練が必要だと思われます。逆に家庭で辛くても、バイト先、職場、サークル、その他家庭外での関係があれば、一箇所で煮詰まった関係が解放されやすいと思われます。
しかしここで問題なのは、このように考えた場合、全体を包みこむような大きな閉塞感を感じてしまうと、やばい、ということです。