日記

物語への没入の高さについて
世の中にはいろいろ夢中になれるものがあるかと思いますが、そのなかでも、物語への没入は、他にはない特別な没入度の高さがないでしょうか。小説を読んでいてページをめくるのも息苦しくなるほど夢中になったのは中一の時ぐらいまでで、それ以降はありませんが、いまでも映画館で映画を見ていたり、マンガを読んでいて、それがおもしろいときは、物凄くのめりこんでしまいます。自分が何をしていても、それをしている自分について、急速にどうでもよく思えてきたり、もっとするべきことがあるこんなことをしていられない、と思ったり、過去の苦しいことを思い出したり、逆に生き生きとした自分を感じたり、することはありますが、何かをしている時で、そうしたことを最も感じにくいのは、物語に没入している時です。夜寝ようとしているとき、今電気を消して暗い部屋の中で寝転がっている自分から離れ、自分の考えや思い出している今日の昼間の状況に没入していき、遂に完全に没入しきったときが眠りに入ったときである、ということと同じような状況が、映画館やマンガには存在するような気がします。物語への没入は白昼夢の一種なのでしょうか。ぎりぎり息が持つペースで長距離走をしているときや、興味のある仕事に集中している時や、コンサートでのりのりになっているときも、ある種の集中、没入はありますが、自分の客観性、自分のしていることを見つめる自分は、少しは残っているように思えます。そういうときは常に、急速に冷めてしまいそうになる瞬間があり、冷めてしまうことが癖になってしまっている時は、もうまったく没入できなくなります。いくらコンサートの大好きな曲がかかっている時でも顔がゆがめて頭を抱えてしまうほどこのままではいけないという考えに支配されてしまいます。しかし物語は、没入の彼岸度が閾値を越えている、没入すると没入しっぱなしになる、まさに夢の世界に完全に入ってしまう、そういう部分があります。この、物語への没入が、他のどんなことよりも、高度な逃避を実現する、ある意味で、唯一自分を救う瞬間を実現できる、ような、そういう考えになってしまいそうになる部分があります。気のおけない人と飲みながら思う存分楽しく話しあうようなめったに無いことがあった日の夜でも苦悩で悶える日がほとんどですが、のめり込める映画を見た日の夜は、夜に苦悩で悶えてしまう事がまったくなく、ぐっすりと眠れます。この没入度の高さ、自分を忘れて日々をつつがなく過ごさせる力の大きさは、いったいなんでしょうか。