日記

自分がいいと感じたものがあったとしても、自分がいいと感じたことが良いと思えない場合、自分がいいと感じたその感じを信頼できない場合、そのいい感じを肯定することができない。では自分は何を肯定するのか。私の場合だと権威を信用しがちだが、私が信用する、その判断に依存してしまう権威とは、私がいいと感じた権威でしかないのだから、その権威も本当には信用できない。こういう話は、自分が信用できるかできないか、他人が信用できるかできないかといった型でできる話ではなく、自分が信用できる時もあればできない時もあるし、他人が信用できる時もあればできない時もある、ということ話ではある。自分がこれはいいと思う、そのいい感じをどうしていいと思うのか説明すれば、少なくともそのいい感じを、信用できるできないの問題ではなく、どの点でどのようにいいか悪いかの問題にできる。どの点でどのようにいいか悪いかが問題ではないいい感じというのも、たくさんありそうに思える。でも悪い時もあるのだならあれが悪くこれは良い、と思うなかで何らかの基準が示されはするのではないか。ここで、なぜ、いい感じが、信用できるかどうか、どの点でどのようにいいか悪いかの問題として話さなければならないかという問題が出てくる。いい感じはいい感じであり、それ以上ではない。信用もなにもない。いい感じの定着についてことさらに意識を集中させることが初発にある時点で、お金儲けしか考えていないのではないか。お金儲けは悪いことではないと思いますが、お金を儲けたいのならもっと他にするべきことがあると思います。