日記

人は基本的に、人のためになること、人に感謝されるようなことをすることに歓びを感じる。あるいはそれを、しなければならない責務と感じる。別に大それたことでなくても、たとえば電車でお年寄りが前に立てば席を譲るとか、そういう行為のことだ。当然それはとても重要なことだ。というか人間の感情の根源的なところにあることだろう。だがそれは逆に言えば、差し迫っては誰のためもならないこと、誰にも感謝されないことをつづけるのはとても困難だということでもある。たとえば芸術作品をつくりつづけること。

それは誰にも感謝されないし、誰をも喜ばせないどころか、しばしば人から不審がられ、胡散臭がられ、軽蔑され、邪魔だとさえ思われる。そんなことに何の意味があるのか。でもそれは、疲れた人にイスを与え、飢えた人に食べ物を与えるのとは別の次元で人のためにすることなのだということを、それをつくろうとしている人は信じているはずだ。芸術作品をつくろうとする人は誰でも、過去の作品から与えられたもののかけがえなさを知っているはずだし、なにより自分自身がその力のおかげで生きることが出来ている(それがなければ生きていけない)ということを知っているはずだ。

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では、人が基本的に、人のためになること、人に感謝されるようなことをすることに歓びを感じない、あるいはそれを、しなければならない責務と感じない、ということは可能だろうか。可能だ、という答えを出す人は、新たな真理を得た、新たな発見をした、新たな思想を作った、のではなく、「人間」という言葉の意味がわかっていない、ことになるだろうか。隣人や友人知人のために生きているのではない、隣人や友人知人をないがしろにして生きることも必要なときがある、と言った場合、では、隣人や友人知人ではなく、なんのために生きるのか、それは結局、真の隣人・友人・知人のため、遥か彼方の隣人・友人・知人のために生きる、ということでしかあり得ないのではないだろうか、つまり結局、人はどんなふうにしても隣人・友人・知人のためにしか生きることはできない、のではないだろうか、といった言い方が、「利己主義」=人は自分の得になるようにしか生きられない、のように可能にならざるを得ない、のだろうか。