日記

正しいこと、これは揶揄する意味ではなくて、まあこういう状況になったら誰でもたいがいはこうするだろうな、とか、重病になって毎日苦しくてたまらないのは誰だって嫌だろうから重病になるようなことを自ら進んでしたりはしないだろうな、というような意味での正しいことだとすると、まあどういう意味であろうと正しいことなど一概には言えないと言い続けることはできるとは思いますが、そのへんはまあ妥当なところで、中庸で、過ぎたるは及ばざるが如しで、というまさにそれこそが、と言いたくなる気持ちを抑えると、妥当な線はあるということになる。
難しい理論や深遠な考え方がいろいろあるとしても、じゃあ一体どうなることが結論なの、と考えるこういう考え方こそが最も避けるべきことだとは思いますが避けない、となると、だいたい決まっているわけで、いろいろ考えた結果、のこぎりで脇腹を切られながら餓死することが人間が最も幸福になる方法だということがわかりました、となることはなく、平凡な、正しいことにおちつく。もちろん、いろいろ考えた結果、のこぎりで脇腹を切られながら餓死することが人間が最も幸福になる方法だということがわかる、という可能性はある。しかしそれは、のこぎりで脇腹を切られながら餓死することが人間が最も幸福になる方法だということを納得させる説明が必要となるのであり、のこぎりで脇腹を切られながら餓死することが最終目標でその先にはなにもない、となると、これが幸福であると判断するのには無理がある。ただ苦しいだけ、痛いだけ、というところに幸福を見出すことは不可能です。
この不可能性は経験的な不可能性ではなく、論理的な不可能性である。論理というと無理がありそうなのですが、経験的な不可能性ではないとは言えそうです。こういうのが「世界像」なのではないかと思います。違うかもしれません。
「自分の右手は存在する」これを疑う人は、ではいったい何の存在を信じるのか。実はいま夢を見ているだけであって起きると実際は自分は手を切断された人かもしれない、手は切断されていなくても、もしいま夢を見ているのなら、この手は存在しない、と言えるではないですか、だとか、夢を見ていないにしても悪霊に騙されている、などと考える人、つまり自分の右手が存在することを本気で疑う人は、ではどうなったら「自分の右手は存在する」と言えるのか。この人はむしろ「存在する」という言葉の意味がわかっていないだけなのではないか。
これは典型的な世界像命題ですが、幸せや不幸にはこういう面があるのではないか、と思います。幸せは、誰にとっても人それぞれの幸せがある、と言えるような大きな確定した意味、状況があるのではないか、そしてそれは、どれほど深く考えても同じなのではないか、なのではなく、幸せや不幸は、深く考えたり様々な経験を経たりした先でたどり着く超越的もしくは結果的な領域の話ではなく、結局はこれが幸せであり不幸であるということが最初に決まっている、ような話なのではないか、ということだと思えてしまう部分があるのではないか。
例えばダメなことはだめなのでありだめなことが良くなったりはしない。死ぬほど歩いて疲れきってようやく水の飲める河にたどりつくよりは出ろ!と言うだけでおいしい水の入ったペットボトルが出てくるほうがいいに決まっている。おいしいケーキはおいしいし、まずいケーキはまずい、走るのが速いほうが早く目的地に着くし、頭がいい方がおつりの計算が早い、山手線に駆け込むと都会都市東京で田舎者がみっともなくなにをいそいでんの、と思われてしまうことになる、こういう所は変わらない。天国があっても、あの世が誰かの言うとおりのものだったとしても、宗教(まあもちろんあの世があるとかいいことしたら天国に行けるとかいう考え方は「宗教」とは何の関係もないのかもしれませんが……などと偉そうなことを言ってすみません……)を信じる気になれないし救われる気もしないと屋根裏さんはかつて書いたが(紛失したのでログ持ってる人がいたらください)、それと同じようなことを思いました。そのときです!それでもなおそこに斬り込んでくる力を感じたのは田川さんの『イエスという男』でした。でしたがもちろんそこでも幸福や不幸、何がまっとうで何が卑怯か、そういう事の判断は確固としてある、むしろより強力なものとしてある。
そういうことをぼんやりかんがえてみると、ウの、世界像とか、解釈ではなく記述とか、もう誰も一言も反対ができないようなことしか言わない、ということの納得感が増す、ように思います。