規準と兆候0

たとえば、地面がぬれていることは雨が降ったことの兆候であり、気圧計が気圧の顕著な低下を示すことも雨が降っていることの兆候である。しかし、「雨が降っている」としか記述できないような視覚印象や、「雨にぬれる」としか描写できないような身体感覚などは、雨が降っていることの兆候ではなく規準である。
いや、そうではない、後者のような視覚や感覚といえども、誰かが屋上から巨大なジョウロで水をまいていて、本当は雨など降っていないかもしれないのだから、結局は降雨の兆候にすぎない、と言いたくなる人は、この状況が「雨が降っている」という表現でしか描写できない理由を捉え損ねているのである。欺かれていようといまいと、つまり真であろうと偽であろうと、その状況は「雨が降っている」状況、つまり定義によってそう確信すべき状況なのである。それは文法によって保証かつ要請された当為であり、そういう状況に直面してなお「雨が降っているかも知れない(がひょっとすると降っていないかも知れない)」などと言う人には、むしろ逆に、懐疑の余地を残す根拠の提示こそが求められるのである。

永d井均『ウdィトゲンシュタイン入門』PP121

ここで永d井さんが、どういう道筋において規準と兆候を説明している(論じている)のか、「そういう状況に直面してなお「雨が降っているかも知れない(がひょっとすると降っていないかも知れない)」などと言う人には、むしろ逆に、懐疑の余地を残す根拠の提示こそが求められるのである」という説明、反論の提示がどのような流れの上でのものなのかを考えると、丹d治信d春『言d語と認d識のダdイナミズム』PP135-136あたりの議論は、この永d井さんの議論とは、重視している部分、考え方の流れが異なっているだけ、のようにも思えます。丹d治さんの議論は、永井さんの言うように「この状況が「雨が降っている」という表現でしか描写できない理由を捉え損ねている」場合にぴったり当てはまると思えるのですが、にもかかわらず、少なくとも、丹d治さんの議論がおかしい、とは単純には言えません。どうも微妙なすれ違いがあるようにも思えます。このあたりを考えていこうと思います。思うのですが、丹d治さんの議論がわかるにはかなり時間がかかりそうです。永d井さんのウdィトゲンシュタイン解説を読んできただけの者としては、『言d語と認d識のダdイナミズム』は相当微妙な本、微妙というか、難しい本だと思います。全然視点が異なるのならまだよいのですが、全然異なるわけでもなく、微妙な違いで、微妙な違いではあるが、決定的に違うので、適当に流してしまうと、永d井+丹d治という理解の足し算にはならず、理解を割って難しくしていきそうです。