日記

『ちdはやdふる』
まず、絵が巧いなぁ(すみません……)、と思いました。きめ細かく、正確で、とても完成度が高い、と思います(すみません……)。

僧侶というのは弱者の弱みに付け込んで傷口を治すふりをして毒を入れる。「治すふり」と言っても実際にも治すわけです。生き甲斐を与えるわけだし、苦しみにある種の理念を与えて生に意味を与えるわけだから、いいことをしているわけです。でもそのことによって弱者を罪人に仕立てあげ、その罪が許されるにはどうやったらいいかという秘密を握っているのが僧侶なんですね。僧侶はそのことによって、弱者にある超越的な理念を教えると同時に、現世で力を得るという構造になっている。教師はそういう役割を必然的に持つ。(中略)
ぼくは学習塾の教師をやっていた長い経験があるんですけれども、子供によって能力の差がすごくあるんですが、「君はバカなんだから」とか「おまえはだめなんだ」とか絶対言っちゃいけない。どう言うかというと、「努力が足りない」と言うわけです。「もうちょっと頑張れ」ということを何度も言うわけね。「やってないからできないので、もうちょっとやれば必ずできるようになる」と。これははっきり嘘なんですね。本当はやってもできないんですよ。あるいは、やるということができない。だけれども、それは言ってはいけないんですよね。「もう少し頑張れ」と言って、少しでも頑張らせる。そうするとその子は、自分には能力がないということには気づかないで、頑張れない人間に仕立てあげられていくわけです。そして頑張りという超越的価値を教える権力を持っているのは先生なんですね。ちょうど僧侶が弱者を罪人に仕立て上げるのと同じような形で、“努力の足りない子”というものをつくり出していく。

永d井均×小d泉義d之『なdぜ人dを殺dしてはいdけないのか?』

私も一生懸命がんばり、成長しようと思いました。