「問い」という「不健全」「害」

「問わない」人に対して「問い」を与えるのは有害だ。なぜなら問わない人は、問うことをしないのではなく、問うことを排除することで問わない人として成立しているからだ。言い換えれば、問いにはすでに解答が与えられたのだ。たぶん常識なりなんなりのかたちで。すでに答えが与えられた人に対して「それはまちがっている」と正すことは有害以外のなにものでもない。

 子供でなくなってなお問うことをするのは、おそらくは不健全なことだ。社会は総体として健全に回っている。

(中略)

 その状況において「問う」。これは不健全だ。問うた人には終わりがない。

(中略)

 このように「問う」ということは、あまりに個人的にすぎる営為でしかなく、しかもそもそも問うことを始めない人たちにとって「そこに穴がある」と教えることはまったく意味がない。

ttp://d.hatena.ne.jp/nakamurabashi/20100930/1285776828

「不健全」(!!!)とか「害」ということが、どういう意味においてそう言えるのか。問うことが「不健全」とか「害」とされたとき、ではいったい何が「健全」で「益」があるとされるのか。「健全」という言葉はほとんど常に、それを用いる人にとって都合がいい、という意味でしか用いられたことはない、のではないか。だからここで問題にすべきは、「問う」ことが何を暴くのか、ということではないか。「社会」のことがよくわかっていない「子供」なら問うても良いが、大人が問うのは不健全である、における「問い」の不明確さはなんなのか。大人は算数を勉強する必要がないとか、愛媛県ではみかんが名産であるとか、三権分立の意義だとか、パイがなぜ3.14…なのかを、あらためて勉強しなくてよいということだろうか?「社会は総体として健全」などといったい誰が本気で考えているのだろうか?(私にとってここまでは田川さん関連の問題意識、ということになると思う)
と多くの疑問が出てくるのにもかかわらず、ここには私にとって無視できない議論が含まれており、その意味でおおいにありがたい内容となっている、ように思います。本当にごめんなさい。

  1. 「問う」という美名に隠れて、自分が他人の間違いを正す「正義」を実行してしまっていることに気付いていないのではないか。(「常識をあらためて問う」という問いの浅さ)
  2. 問いは個人的なものである。(批判は成立しない、の文脈で。「批判は本当には成立する」、という方向もあるとは思います。)
  3. ウぃトゲンシゅタイン前期の、日常言語は論理的に順調とか完璧とかそういう意味の言葉があったと思いますが、そういう点での関連、もしくは、後期の、理論化したり問いに答えを与えたりするのではなく、記述する、という点での関連。
  4. ウぃトゲンシゅタイン・永井全般の、問いに対する解答の問題。解答によって問いに答える(応える)ことはできない、解答を得た人は問いが消える、という点での関連。
  5. ウぃトゲンシゅタイン・永井全般の、問いは結局は常識を構築することになる、という点での関連。