どんな手段を用いようがそれを得ればそれで良い

どんな手段を用いようがお金を手に入れることができればそれで良い、かというと、もちろんそうではない。お金の代わりにたとえば人望や健康を失えば、いくらお金があってもそれを生かすことができない状態に陥ることが考えられるからだ。たとえば80億円得ても、大怪我をしてしまい明日には必ず死ぬ、となってしまえば、80億円を得ることにほとんど意味はない。つまりお金は、決して軽視できないものだが、それ自体が目的ではない。お金自体が目的なのではなく、お金を得ることによって得られるものが目的なのであり、お金は、それによって得られるものの範囲が比較的大きいと思える、という程度のものにすぎない。

では、どんな手段を用いようがそれを得ればそれで良い、と言えるものがなにかあるだろうか。どんな卑怯な手段、二度と思い出したくもない嫌な手段を用いても、それを得てしまえばこっちのものだ、というものはあるだろうか。わたしは最近、絶対に持ちたくない、それを持ったらおしまいだろう、と思っていたそれ、それを持たないことを誇らしく宣言した思想家の言葉をえらそうに読んだり引用したりしていたそれを、じつは持つべきだったのではないか、と思い始めています。それだけは絶対に持つべきではないだろう、と思っていたのですが、嫌らしくせこく厚かましくがめつく厚顔無恥に自分の性向に居直ってでも他人を無視してでも、それを得てしまえば、それでいい、となるしかない、それはそういうもの、なのではないか、と思うようになりつつあります。
(上の様な対立とは別に、「それを得てしまえばそれで良い」という万能薬が存在するという単純さは、もうそれだけで虫のいい考えだという気はします。気はしますが、そういう虫のいいものがあっても別に構わないとは思います。あってはいけない!と決め付けるのは、苦労・複雑主義というものでしょう。万能薬や万能薬を効率よく得る方法に目を向け過ぎることは、苦労・複雑主義にのめりこむ以上に良くないことかもしれませんが。だからむしろ、「どんな手段を用いようがそれを得ればそれで良い」ではなく、「どんな手を使ってでもそれを取りに行く」とするべきなのか。)