(人の言葉に)生かされること、人生における他人の存在について

公式の答えとしては、最終的には他人の承認がどうしても必要になる(ということが避けられない)、ということだと思う。
そうではないことを言ったのは(寡聞にして)永井さんだけだが、どうすればそうではない状態にできるのかについては一切言っていないのでほとんど謎の発言だと思うしかない。その可能性に気付けただけでも大きいと思いますが。
「他人の承認」というものは本当に強力で、何気ないたった一言で、ものすごく救われた、という経験は誰にでもあるのではないでしょうか。それを求めないようにする、自分で自分にものすごく救われるような何気ないひと言を言う、そんなことは可能だろうか。どのようにして可能だろうか。
このような疑問は、他人に認められることをする能力があったり友人がいたり恋人がいたり家族を持っていたり仕事で成功したりしている人(状態)には全く関係のない疑問なので、無意味な疑問であるか、もしくは、単純に言ってしまうと別の疑問に変質させて解釈されやすい。たまたまいまは親しい人がいる、認められている、という状態のときもあるから、自分でも誤解しやすい。単に、自分の意見に自信を持つとか、さみしい生活に耐えるとか、そういう話ではなく、自分の意見に自信を持たなければならないことに意義をもてるかどうか、さみしい生活に耐えることに意義をもてるかどうか、つまり、生きることに意義を持てるかどうかの話です。