死んだ人間の体

人間には心だけでなく体もあるから、人間の体を大事に思う気持ちは理解できる。たとえ心がなくなった人間だとしても、体を大事に思う気持ちは理解できる。心がなくなった人間というのはたとえば死んだ人間のことです。一方で、死んだ人間から臓器を取り出し、他の人間、死にそうだけど臓器を移植をすれば助かる人間にその臓器を移植することができる。
現在、脳死で死んだ場合、他の人間に臓器を提供することが推奨されている。推奨されているが義務ではない。死んですぐに自分の体の臓器が取り出されることに抵抗を持つ人も多いとおもいます。私も臓器提供カード持ってて提供臓器欄に書いている臓器全部まるで囲んでますが正直言うと、なんとなく、ちょっと怖いです。
しかし将来的には、死んだ人間の体を大事に思いすぎて他の生き延びることのできる人間を見殺しにすることはいけなことだ、という社会的合意が形成されるかもしれません。現実にそうなるかどうかはともかく、そうなる事は十分に可能なこと、ありそうなことです。脳死でなくても移植が可能になることにより、全く臓器が取り除かれていない死んだ人間の体を使用した葬式が行われることは、21世紀前半が最後になるかもしれません。
迷信、根拠のない療法、によって、科学的で正当な医療を受ける機会を奪われる、ことが問題だとすれば、死んだ人間の体を大事に思いすぎて生き延びることができるはずだった他人を生き延びさせることができないのことは、大問題だ!ということになりうるのではないか。死んだ人間はどうやっても生き返らない。生き返らない人間の体を大事に思いすぎるぐらいなら、他人を生きさせたほうが良いのではないか。死を悼むことが人間にとって大事であるということを無視すべき、かどうか、という話ではなく、方向としてはこうなっていっているような気がします。そのことにより多くの人が死なずに生きることができればそれはよいことなのではないか、と思います。
死んだあとの人間の体から臓器を取りださずにいる時間が長いことが、めぐりめぐってどこかに発生させた幸せ量と、死んだ人間の臓器を移植することによって生きることができた人にまつわる幸せ量を軽量し、得するほうを選ぶ、というのもまた、科学の役割だと思いますし、結局こうした考え以外の考えかたは人間には不可能*1なのであり、科学は永遠に進化し続ける発展途上の最高方法だ!と思うかというと、そこまで思うのは思いすぎだと思います。そこまでは思っていない。

*1:いわゆる「人類は能力差別を克服不可能」