日記

エロ写真のなかには「どうだ!」が出すぎていて笑えるものがある、極端とか下品とか笑いを狙っているとかではなく、エロいものそのものが笑えるのではないか、というようなことを以前書きましたが、笑えるエロがあるのではなく、エロはすべて笑えるのではないか?と最近思いました。と思ったのですがそれも以前書いていました。

アダルトビデオのタイトルには、笑いを狙っている、既存の有名言葉の一部をえろい言葉で置き換えたようなタイトルが多く(多いのかどうか知りません)、やはりエロと笑いには近いものがあるような気がします。エロと笑いが近い、というよりは、エロい気持ちにさせようとする意図と、笑わせようとする意図は近い、ということでしょうか。まだ全然考えていません。アダルトビデオには、雪が降っている寒そうな風景が似合う切ないものや、泣き叫んでいる人をさらにいじめるという陵辱的なものもあります(こんなののどこがいいのか私には全くわかりませんがこの種のものは相当数存在するので(存在するかどうか知りませんが)これがいいという好みは確かに存在するのだと思います)し、エロ=笑いというわけではないと思います。


既存の有名言葉の一部をえろい言葉で置き換えたようなタイトル、で思い出したのですが、

私はこの写真を見て笑いました。有名人に似ているけど似ているだけで違う、けど似ている、というのはなぜ笑えるのでしょうか。ここには、面白い芸行動があるわけではありません(あります)。あるのは、似ている、ということだけです。
tumblrで浜田まさとしさんと松本ひとしさんのそっくりさんの写真を見たときも相当おもしろいと感じました。似ているけど違う、全然違うけど似ている、これが笑えるのはなぜでしょうか。図らずも似ている、という場合と、似せようとして似ている、という場合を比べると、似せようとして、あるいは、似ていることを本人が意識して、似ている、という場合のほうがおもしろいと感じるような気がします。有名人に似ているということ、有名人に似せようとしている意図があるということ、これが笑いにつながるのでしょうか。そしてこれは、えろい気持ちにさせようとしていることとつながる部分があるのでしょうか。


えろい気持ちになっているときに、笑いが発生したら、えろい気持ちはなくなってしまうような気がします。エロと笑いが同時に成立するわけではないと思います。笑いが発生することはえろい気持ちにとってむしろ邪魔でしょう。それなのに、アダルトビデオのタイトルは、こちらを笑わせにかかってきているものが少なくありません。それはなぜでしょうか?おもしろければ、気を引ければ何でもいいのでしょうか?
そして、えろい気持ちにさせようとしているもの、文章、写真、動画、そのものが、笑えるものも少なくありません。これは、図らずも笑いが発生してしまう、と思うのですが、エロ小説の文章表現、アダルトビデオ、のある種のものに、笑わせようとする意図はなくても、非常に滑稽なもの、笑おうとする意図で目にすると、笑わせようとしているとしか思えないもの、が多いこともまた確かです。ということはやはりエロと笑いには近い部分があるのでしょうか。


エロと笑いには近い部分がある、ことは何か考える価値のあるテーマだ、と思っているわけではありません。私に考える価値のあるテーマがあるとしたら、人として立派に生きるにはどうすればいいか、社会人として恥ずかしくない行動をするにはどうすればいいか、これからは定年まで会社で働き給料を得るという生き方以外の生き方を真剣に考えなければならないということ、身だしなみをちゃんとするにはどうすればいいか、仕事を立派にこなすにはどうすればいいか、栄養があり安価な食事を継続的に取るにはどうすればいいか、いつも意欲を持ち前向きに明るく生きるにはどうすればいいか、ケチではない豊かな生活のための正しい節約とはどのようなものか、定期的な収入を得ることができなくなる老後に備えて普段からどのようなことに注意して生きていけばよいか、お金のかしこい運用方法、男性との小粋な会話術、部屋にうるおいを与え世話が楽な観葉植物、両親への感謝の気持ち、自分を成長させる気持ちの持ち方、勉強術、そのようなことだと思います。そのようなことを一切考えず、エロと笑いの関係について考えることは、無駄以外の何かではありません。ここにはどんな生産的な活動もありません。