日記

新しい文庫で出た『ゴ林ーストバ林スターズ』を7割読みました。以前読んでいないと書きましたが、読むと内容を覚えている箇所がちらほらあったので読んでいたのだと思いました。『ゴ林ーストバ林スターズ』は高橋さんのいろいろな小説が集まったものだとも見なせる(超林人マンとかペ林ンギン村とかのエピソード(すみません)は単独のものとして読んだ記憶があります)のでまとまったものを読んだのではなく断片をおぼえているだけかもしれません。奥林泉さんが解説です。奥林泉さんと言えば新人賞の選考感想文で、なんか最後にしんみりさせて終わったら文学とか思ってる人が多くて最悪だ!!とお怒りになっていたのが印象に残っているのですが、奥林泉さんが『ゴ林ーストバ林スターズ』の楽しめる点として挙げている「そこはかとない哀愁」は、「なんかしんみりさせて」るのと同じ、ではないのか?と思えるので考えどころだと思います。高橋さんの「そこはかとない哀愁」は高橋さんの小説にはいつもあるような気がしますが(いつもというほど高橋さんの小説を読んでいませんが。というか全く読んでいません)、そこは好きな点です。同時に、しんみりしちゃっていいのかなという点でもあります。同じ哀愁でも好きになれる哀愁もあればどうしてただ事実を書けばいいのに切なく書いてぶち壊しにするのかと思いたくなる哀愁もあるので哀愁がだめなわけではなくて哀愁にも良いものとだめなものがあるということでしょうか。もしくは、高橋さんは小説についてものすごく考えておりその結果哀愁が出てくるが、奥泉さんがお怒りになる哀愁は、人が悩んだり死んだり病気になったりして切なくなってくれば文学なんだろ?という哀愁であり哀愁の種類が違う、ということでしょうか。結果として哀愁なのだから、自分の力ではどうしようもないことにぶつかったり昔を思い出したりして哀しみが溢れる哀しみだろうと、小説の可能性の追求の結果出てくる哀愁だろうと要は哀愁であり同じ、ということにはならない、のでしょうか。確かに高橋さんの哀愁は読んでいて好きな哀愁が多くここを読んでしんみりしちゃっていいのかなとは少し思いますが(なぜ思うかというと奥林泉さんがしんみりにお怒りになっているのを読んだからとすがさんが言ってた「悪しきポエジー」ってこれかなと見当違いかもしれないことを思うから)読んでいて直接に、ただ事実と主張を書けばいいのにしんみりさせて台無しにしていると感じられる文章とは確実に違うのですが、違うという根拠は、怒りの感情が出てくるかどうかなので、やはり違いはないのかもしれません。では、最後に悲しげな雰囲気を漂わせて終わる、のが文学だろ? というのが、怒りの対象としてふさわしい理由はなんでしょうか。怒れちゃうのだからそれが十分理由になる、ということでよいのかもしれませんが、なぜ怒れるのか、怒れるとなぜだめなのか、ぐらいまでは見ておきたいです。なぜ見ておきたいか?いろいろ役に立ちそうだからです。効率主義です。能力差別です。氷河期に人類が生き残ったのは少ない消費カロリーで木の実を得る手段を持っていた人がいたからであり疲労困憊するまで遠くに行ったのに木の実を一個しか取って来れないような能力の低い人は10歩歩くだけで両手一杯木の実と肉と取って来れるような能力の高い人より低く見られるのは当然のことでこの絶対的な差は人間の価値基準は物理学的生物学的事実に起因するというような考え方だからおかしいと言えるだろうか。そうではなく、たとえば、肌の色の白い男性一般は木の実獲得能力が低いことが経験的統計的に実証されたからといって木の実採集班の責任者選出基準から肌の色の白い男性を外す、ということをしてはいけないということと能力差別は異なる、ということだろうか。