進化と生物の体について

山手線に乗っていると「人間の目には白い部分が多いのはなぜ!?」という映像が流れていたので見ないふりをしました。このような日記を書きません。見ないふりをして見るのがおもしろいという日記を書きたいのではないからです。山手線のドアの上にある映像には直視できにくい雰囲気がある。これを興味深く見ていたら田舎者だと思われるのではないか。これを直視する率直さが都会人というものではないか。目指すべきは都会人であって田舎者ではないのか。目指すべきものの別名として都会人という言葉を使用しているだけであって田舎者のなかにも目指すべき田舎者はいる。このようなことを考えず考えるべきことを考える。考えるべきことというのは、老後、つまり、定期的に収入を得る手段を持つことができない年齢になってからの生活のことです。これはおもしろい話ではないです。映像では、視線のコミュニケーションが人間には非常に重要であり、白目は敵に見つかりやすいという欠点がありながらも視線の動きが見えやすくなるという長所があるため、人間に白目が多い、ということでした。ここから進化と生物の体の話をしたいように思ったのですがしたくありませんでした。なぜ見ないふりをして見るのがおもしろいという日記を書きたいのではないのだろうか? 私はウケる日記を書くような軽薄な人間ではなく、真面目な、考えるべきことだけを考える日記を書きたい、ということだろうか。そう思います。そう思うのはなぜか。なぜおもしろい日記を書きたく思わないのか。ウケ狙い一般が、そもそも受けない、おもしろいやろ〜という狙いが見えるとおもしろくなくなる、そういうことがあるからだと思います。しかしおもしろい日記は確実におもしろいことを狙って書かれている。芸人さんもみんなそうだ(そうかどうかは知りませんが……)。芸人なんてみんな受けを狙っているんやろ、そんなんぜんぜんおもろないわ、とはなりません。私には、いわゆる天然、図らずもおもしろい、狙っていないがおもしろい、というものを好みすぎる傾向があるとは思いますが、おもしろいことを狙っているものは全くおもしろくないとまで思うわけではありません。となると、「……というのがおもしろいやろ」日記を敬遠するのは、単なる怠惰な姿勢、正面からぶつかっていないだけ、ということになるのではないだろうか、と思います。本当はウケたい、笑い転がって欲しい、しかしこれおもしろいやろ?と思われると恥ずかしい。だからおもしろい日記を書かないと書く。真面目なことだけ、本当に考えたいことだけ書くと書く。しかし本当に考えたいことというのがふざけた内容だった、というギャグ、これは逃げではないだろうか。なぜ逃げてはいけないのだろうか。逃げても最終的に得るものが最大になるのならそれでよいと思います。しかしこの場合の逃げとはそういうことが問題になっている逃げではない。なぜ逃げが発生するのか。逃げてはいけないのだから逃げなど発生しなさそうなのに逃げはいたるところで発生する。いたるところで発生する理由があるのに、その理由を追求せず、逃げはいけないものだからという理由だけで逃げを排除しようとする。そのような意味での逃げがここで問題になっているのではない。逃げても最終的に得るものが最大になるのならそれでよいという逃げは既に逃げではない。得るものがどう考えても増えようがないものを逃げと呼ぶのではないか。食べても害にならないカロリーゼロの人口甘味料の存在は不道徳的ではなく、『資本論』を読む以上に資本論の考え方を理解できるマンガの存在は努力否定的でも非学問的でもないのと同様、得になる逃げ、勇気ある逃げ、というものも存在する、かというと、存在しない。と考えた場合の逃げという言葉には、「戦車には勝てないので逃げる」という文章で使用されている逃げるという言葉とは異なる意味で用いられている。