なぜ「不幸の本質」が問題となるのか

あの人はいつも生き生きと明るく振舞っていて物事に動じずユーモアがあり誰からも好かれるが反骨精神はあり仕事もできるのに弱い人への思いやりも持っており素晴らしい人だ。
と言われている人が不幸である可能性はあるだろうか。たとえば、誰も知らなかったが家庭は息子の暴力で悲惨だった、不治の病にかかっていた、女性として生きていたが心は男性であることに苦しんでいた、20年前性的暴行事件で逮捕されており周囲にばれるのを恐れながらも止まない欲望に苦しめられていた、などの場合はどうだろうか。
上のような状況を付け加えた場合も、やはりこの人が幸福であったことは否定できない、不幸であることは不可能なのではないだろうか。
幸福とは、いつも生き生きと明るく振舞っていて物事に動じずユーモアがあり誰からも好かれるが反骨精神はあり仕事もできるのに弱い人への思いやりも持っている、ようなことをいうのではないだろうか。だからこの状況は、定義上幸福なのではないだろうか。「もしかしたら不幸なのかも」とすら言えない、もしそう言うのなら、そう言える根拠の提示が必要となる(←永井さん)のであり、上ではその根拠を提示したことになるかもしれないが、その場合でもまだ継続して「いつも生き生きと明るく振舞っていて物事に動じずユーモアがあり誰からも好かれるが反骨精神はあり仕事もできるのに弱い人への思いやりも持っている」と言えるかどうかがポイントとなる。上のような状況を付け加えたあとに、「そういえば、給湯室で泣いているのを見たよ」「どこか不安定なところがあった……」となるともう当初の評価とは異なってくる。それでも評価が変わらないのならやはり幸福、ということになるのではないか。


先に進まないのでポイントだけを書いておきます。問題となるのは、お金がなくても、お金が無いことに関して深い自責の念にとらわれていても、お金がなくても幸福である、という可能性を考えることができれば、たとえそれを認めなくても、幸福は確保されざるを得ない、のではないか、ということです。不幸か幸福かなんてことは問題ではない、という可能性を考えることができれば、それは現実化せざるを得ない、ということです。つまり、定義上不幸な人は、自分のやっていることやってきたこと自分の属性について、完全に否定的にならざるを得ないのでないか、それを、「自分である」ということだけで肯定できるとか肯定せよとかいう命令は、空疎としか言いようがない。自分がどこかで何らかの幸福に接続されていなければ、肯定にはつながらない。「否定してもよい」という肯定がない限りは。(自己肯定と幸福を同じものとみなす考え)
何をやるか何をやったかが問題、なのかもしれないが、その結果がことごとく不幸につながるか幸福につながらなかった場合、総体的に不幸になるしかないのではないか(それでも幸福や、幸不幸の無視につなげることは可能か、という疑問は意味がない)、とするなら、何をやるか何をやったかが問題なのではない、ことになる。逆に、何もしていない、もしくはことごとく不幸になりそうなこと、人でなしのことをしても、幸福になれば、それでよいことになる。そう思えないのは、ことごとく不幸になりそうなこと、人でなしのことをしたばあい、幸福になるとは考えにくいからだ。ということは、幸不幸は結果だけの問題では、ないのか。過程は関係なく結果が本質だが、結果から見て過程は無関係ではない(「幸せな人生だった。思えばあの行動は大事だった」という回想が可能)。過程から見ると結果は無関係(幸福を目指して努力してもいくらでも不幸になる)、ということか。
という考え(A)を否定できるのではないか、というのが始めたかったことです。ここからですので、上のことはいったん忘れます。幸福である、という状態は、おそらく、コンスタントにヒットを打つことができる、3割打者である、という状態とそれほど異ならない。これは無根拠にそう思っているだけなので、Aという考えを、結局は認めることになるかもしれない。Aという考え認めはしたものの採用するのはBという考えになるかもしれない。Bという考えを採用したと自覚していたがよく考えてみると採用していたのはAだった、となるかもしれない。だから必要なのは、幸福になりたければ(幸福になりたくない、という考えは、「幸福」の定義上持つことができない。という考えは正しいか)ひたすらヒットを打つための研究と練習なのであって、溺れるのは体が水より重いという思想を持っているからで体が水より重いという思想から解放されれば溺れない、わけではないのと同じであるのかどうかについて今日から考えたい(考えません)。