日記

どんなに本当の気持ち、心情を吐露したような日記でも、それが文章として書かれてしまえば、自分から離れた物になる。いま自分は自分の気持ちを書いたが、本当の気持ちとは少し異なるような文章になってしまった、この文章では私の真意は表せない、といったことになりがちです。だから、甲さんの日記を読んで、そこに書かれている意見(Aには価値を認めるがBには価値を認めない、もしくは価値が低いと判定する、というような文章)に賛成したり反対したくなったとしても、それは甲さんに賛成したり反対したりすることと同じではない。甲さん自身が、自分の日記を疑わしく考えている可能性は大きい。だからといって、自分はこう書いたが自分でも信じていないのでこれは自分の意見(Aには価値を認めるがBには価値を認めない、もしくは価値が低いと判定する、というような考え)ではない、と言い逃れ(言い逃れ、としか言えないような姿勢)できるわけではない、などと思って本当にすみません……。


しかし、自分がここに書いたものとは別に自分の本意・感情心情がある、という考え方そのものが怪しい。これは、言い訳がいけないとか後出しがいけないとかいう道徳的な話、以外に重点がある話です。自分の本意・感情心情は、自分が書いたものとして生成する(自分の本意そのものとは言えないような仕方で生成する)という方向で考えるべきではないか。自分が書いたものとは違う自分の本当に気持ち、というのがあるとしたら、それはどのように確認されるのか。まさに再度書いたり表現したり<感じたり>することを自分を含めた誰かに表現して初めて言えることであり結局は書かれたものとは別の本意というものを確保することはできない。できにくい。書かれたものがすべてである。書かれなければ何もない。だが、いま書かれたことと同じようなことが次も続くかどうかはわからない。というのはどうでしょうか、という程度の話です。