日記

最終的には、というか、問題は、死に方に帰着するのではないか、と思っています。死に方と言っても思想とか美学とかそういうことではなくて、お金の話です。

  1. 老いて働くことができず入金がない
  2. 生きるにはお金が必要

こうなったら困ります。だからお金を稼げるときに無駄使いせず貯金をしたり年金の運用の動向に興味を持ったりします。
ここで「困る」ということがどういうことか考えてみます。

  1. 生きたい
  2. 生きるにはお金が必要
  3. お金がない

だから困るわけですが、曖昧な部分が多すぎるので、曖昧な部分をなくす。

  1. 生きたい
  2. 生きるにはお金ひと月に8万円が必要
  3. お金がない
  4. ひと月8万円の用意ができなければすぐに死ぬ

こうすると、特に困らないような気がします。なぜなら困るときにはすぐに死ぬからです。死ぬともう困れません。まだ生きたいのに、ひと月に用意できるお金が8万円ぎりぎりになると、死にたくないけど死ぬかもしれないという恐怖から困るかもしれませんが、この恐怖は、私が考えていた老後の困り方とは異なる困り方のように感じます。私は、貧乏とか、病気なのに病院に行けないとか、そこそこ好きなものを食べたり楽しんだりしたいのに、お金がないからろくなものが食べられず環境の悪い場所で落ち着かずに怯えながら暮らすとかそういう困り方を想像していました。ひと月8万円の用意ができなければ一瞬で死んでしまうとすると、こういう種類の困り方にはなりません。こういう種類の困り方をする前に死んでしまうからです。これが、死に方の問題だということです。そして問題はここからです。
以前ある人が私に、「先のことや老後のことを考えて困っても仕方がない、どんなに手を打っても困るときには困るものだ。本当に困ったら死んでしまえばよい、20歳で死ぬのも40歳で死ぬのも80歳で死ぬのもそれほど変わりはない。80歳で死ぬときは死ぬ直前でもそれなりに安らかなのではないか?ではなぜ今日の晩死ぬことが決まっているとしたら安らかに死ねないのか?心の準備の問題か?」と言ったことがあり(ありません)、私は単純で影響されやすいので、「ああなるほど!そのとおりですね!困ったらすぐ死ねばいいんだ!」と言いました(言っていません)。
そのときはそう思ったのですが、何かあるたびにこの話を思い出しているうちに気付きました。問題は、困ったときにすぐ死のうと思っても死ねないことにあるのではないか? かなりの苦しみ、困窮を味わい続けることに、甘んじてしまうのではないか、ということです。人は、というより、私は、「すぐ死ぬ」ことよりも、恐ろしい困窮状態を身に刻む毎日を選択してしまうのではないか、ということです。そう簡単には死ねないのです。病気を抱えたまま駅で寝起きし餌場の縄張りに心を砕く毎日を過ごさなければならないこと、これが避けられないこと、これを避けるには、お金が結局は必要だということ、これが問題なのでした。そうたやすく死を選択できない、これは希望を持っているということでしょうか。なぜ、そうたやすく死を選択できない、と思うのか。その程度には生きていることが楽しいのか。そういう部分はあると思います。