こうであってほしいものとしての「対話」

この対談が失敗だとは思えない。
議論が噛み合っていないと多くの読者が思うだろうが、もし二人の思索者が真剣に対話をしようとすれば、
言葉の定義の違いを細かく修正したり、何度も議論の前提に立ち返り相手の論理を再確認したり、そういう作業が必要である。
誤解の積み重ねとそれを修正する言葉を、本当の真剣な対話ならば、避けて通れない。
雑誌などでみられるスムーズで和気藹々とした対談は、およそ対談を成立させることが目的で、両者は結論に向けて歩み寄り、微小な差異を無視して大団円を迎える。
そして、そのような対談が「かみあった対談」とされるとき、私たちが見失ってしまうものを、この対談は気づかせてくれる。
二人の哲学者が真剣に語る。そして、言葉を重ねるほど、本題から遠ざかっていくように見える。
本来、対話ってそういうものじゃないだろうか。
「なぜ人を殺してはいけないのか」を、小泉氏は「なぜ「なぜ人を殺してはいけないのか」という問いは立てられるべきでないのか」と読み替え、永井氏は「なぜ人がみる世界を消してはいけないのか」という問いに読み替えているようだ。
いずれにせよ読者がすっきりする回答は用意されない。当然だと思う。
永井氏が言うように、こんな難しいテーマを真摯に考えるために哲学という、「学問」ではなく考える行為がある。
簡単に議論がかみ合うこともないし、勝敗がつくものでもない。ましてや簡単な答えなどどこにもない。

真剣勝負に近い格闘技には、プロレスのような劇的な展開はない。
何度技をかけても相手はかわし、派手な決め技がないまま時間切れというパターンが多い。
見る方はいらいらするようなものだ。
だがその格闘家に、客へのサービスが足りないと非難するのは的外れだ。その必要がない。

同じように、この本の、読後のもどかしさややりきれない感想は、ほんとうの哲学のはじまりなんだろう。


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このように書くからといってもう考えつくしたとかそれがつまらないことはわかりきっているのだと主張するつもりはないのですがとりあえず書くと、私も、このようなことを誇らしげに考えていたときがありました。

  • 「ほんとう」の哲学、「本来の」対話、などというものは存在しない。誰かが、ある種のものを、ほんとうとか本来とか言いたくなるだけでしょう。
  • 「一緒に数学の問題を解く」ような「対話」があっても良いと思うし、その場合、「なぜそもそも数学の問題を解かなければならないのか」といった、「真の」対話としてふさわしい議論は、「失敗」でしかないし、問題を解きたい人にとってはかみ合わないばかげた議論でしかないだろう。
  • かみ合わない真の対話か、和気藹々として大円団を迎えるか、以外の対話が存在しないわけがない。真剣な格闘技かプロレスかしかないわけがない。しかも真剣な格闘技のほうがプロレスより上だという価値評価も全く不当だという考え方もあるだろう。短距離走こそがもっとも切実な競技だという考え方もあるだろう。対立というのは、多くの一致点があるからこそ可能になるものだ。多くの部分で一致するからこそ、譲れない対立点が浮き彫りになってくる、ということはよくあることだし、こういうところにこそ、対話の意義や醍醐味があるのであり、ここにこそ、対話の、まさに文字通りの有用性がある、とも言えるのではないでしょうか。
  • たとえば、天才の伝記が、、エキセントリックな人物が描かれていると評価されていることに対して、天才をエキセントリックな人物だと評価することの平凡さや通俗性に我慢ができず、、エキセントリックな人物が描かれていると評価しても全く間違いではない評価に対し、それはレッテル貼りだと批判してしまうという、どのようなものも自分の心酔する思想の型にはめこんで考えてしまうような、しかもそれこそが正しい考え方だと考えていそうな硬直性が、ここに見られるように思えます。
  • 「言葉の定義の違いを細かく修正したり、何度も議論の前提に立ち返り相手の論理を再確認したり」する「もどかしさ」を伴うものこそが、ただそれだけが対話の名に値する真の対話であり、それ以外の対話はナァナァの井戸端会議でしかない、と考えることが有用である場面は多いし、それを指摘することは常に重要なことだとは思います。永井さんが川上さんと話しているときのなんとなく手を抜いているような感じ(なんとなくですが)を見るたびに、そう思います。だからと言ってそれだけを言っていれば良いわけではないと思います。
  • 「「すべからく」を「すべて」の意味で使うことは単なる言葉の誤用ではなく「すべて」と普通に言えばいいところをあえて「すべからく」と偉そうで難しそうな言葉を選んで使いしかもその用法が間違っているという恥ずかしさにある」から「すべからく」を批判してもいいんだ、と正しく鋭いと安心して思える道具に安易に乗りかかるのに似た硬直性であり受験勉強性があるように思います。いま受験勉強差別をしました。お詫びします。

以上をふまえて以下を読みます。天に唾すると自分にふってくる。人生は自分の恥とともにある。朝起きたときの恥で一日が始まり、夜寝る前の恥で一日を終える、その繰り返しが人生である。いま私はそんなふうに思わざるをえません(思いません)。