日記

何かをさせようとする言葉というのは、ほとんど必ず失敗するのではないでしょうか。たとえば、どれほど切実に理論的に禁煙を訴えられたとしても、どこまでも、「でも、本当にタバコをやめることは良いことなのだろうか」と問えてしまうのではないでしょうか。タバコをやめるにはおそらく、タバコをやめることは絶対的に正しいと確信しなければ難しいことを考慮に入れたとしても、タバコをやめることが絶対的に正しいと言い続けなければならないところに、何かをさせようとすることの弱さを感じます。


『禁酒セラピー』を読みました。
正確な知識がないのでわかりませんが、断酒を真剣に「医学的」「科学的」に考えている人からすると、完全に間違った知識も含まれているのでは、という疑念を感じさせられすらします。しかし、本書の意義は、正確な知識を得ることや、意義のある考え方を学ぶことにあるのではありません。酒をやめること、酒をやめるとはどういうことか、について考えさせられること、そこ一点にだけ意義があります。
本書では、酒をやめるにあたって、節酒、我慢する、精神力、という考え方、もしかすると禁酒という考え方すら否定します。ではどのようにして酒(悪習慣)をやめることができるのか?

「正直言って、僕は飲んでも飲まなくてもどっちでもいけるんだよ。一ヶ月全然飲まないときもあるくらいだからね」
(中略)
「正直言って、僕はにんじんを食べても食べなくてもどっちでもいけるんだよ。一ヶ月全然食べないときもあるくらいだからね」これを聞いて「羨ましいなあ。僕もそんなふうににんじんをコントロールできたらいいのに」と思いますか?

「時々飲みながら依存しない方法を教えてもらえますか?」
「もちろんいいですよ。お酒だけでなく、ヒ素を時々飲んでも依存しない方法だって教えてあげられますよ」

つまり、酒を徹底的に害のあるものとしてとらえなおすこと、酒の良い面(おいしい、飲むと気持ちよい、身体に良い、ストレス解消になる、など)を徹底的に否定し尽くすこと、それにより、そもそも我慢や節制や関心の対象から外すこと、を目標としています。
酒は砒素に匹敵するような悪いもの、飲んでも良いことなどひとつもないもの、なのだから、節制したり、我慢したり、強い精神力で押さえつけるようなものでは、そもそもない、ということです。
課題は、酒がいかに良くないものなのか、を理解することにあるのではありません。酒の良い面、世間で良いと言われている面を、どこまで否定できるか、にあります。そこが否定できないと、結局は、飲むのをやめたい気持ちと飲みたい気持ちに引き裂かれる、という構図から出られません。ここにいるかぎり、節制や精神力の問題になってしまいます。そうではない、というのがこの本の主張です。なぜこんなにやめたいと思っているのにやってしまうのか、というと、それをすることは良い(良い面がある)と思っているからだ、というのが筆者の答えです。本書の大部分は、酒の、良いと言われている面を否定することにあてられています。そこに多少無理な記述がなくもないと言えるとは思うのですが、したいしたくないの構図に巻き込まれてしまわないためには、多少極端に言っておくことは必要なのかもしれません。それとも、認識の正確さのほうが重要でしょうか? まあともかく、仕事帰りになんとなくビールを買ってしまい、家に帰ってから寝るまでの時間を酔いだけで過ごし、翌朝だるく目が覚める、という日が断続的に続くことを、やめたいのになかなかやめることができない、という人(私です)は、読んでみると効果があると思います。読んでからそれほど日は経っていませんが、私には効果があったように思います。


「節制や精神力の問題」にするのが良くないことなのか、「節制や精神力の問題」にもちこまないという戦略の是非、などについては、いろいろ考える余地はあると思います。
http://d.hatena.ne.jp/zhqh/20091017/p1