さみしい問題1

中島さんの『孤独について』という本や、探せば少なくはなさそうな「ひとりで生きる」関係の本を読めば、さみしいと思ってしまう気持ちの整理のつけ方について、なんらかのことが学べるのだろうと期待していましたが、それは完全に的外れでした。そのような本には、家族や恋人や友人がいなくても仕事など何らかの場で認められることは絶対に重要、のようなことが必ず書かれているし、中島さんに至っては、妻も子どもも学ぶ仲間もいるうえでの精神的な(?)孤独を語っていたので、それは本当に孤独なのか、と絶句せざるを得ませんでした。仕事もせず学校にも行かず地域や親戚とのつながりもなく妻や子どもや親もない、に類する、状態で(この状態で生きていく方法を私は知りませんが(金銭的に))、インターネットでブログを書いたりツイッターをして、苦痛を軽減する、という生き方こそ、「普通に」、孤独(な生き方)と呼ぶのにふさわしいのではないか、というのが私の感覚です。「ツイッターをしているから妻も子どもも友人もいないけど孤独じゃない」と「妻も子どもも友人もいるからツイッターをしていないけど孤独じゃない」のどちらが「普通」の表現かは一目瞭然だと思いますが、人にはそれぞれ別の課題がある、ということなのかもしれません。重要なのは、(さみしいという)苦痛をどうすべきかという本当に切実な問題なのであり、何を孤独と呼ぶにふさわしいか、という呼び名の問題ではありません。とにかく中島さんの本を読んだときは、文字通り、部屋でひとり、ひっくり返りました。妻や子どもや教え子(一緒に学ぶ仲間)がいても、孤独という状態はあるのか、孤独という苦痛はあるのか、ということを考えると、ある種の人が見たら全く孤独ではないという状況にいても、人は誰もがそれぞれの状況下において、死を意識するくらいの苦痛を感じるものなのだから、単に孤独に見えないっぽい状況を作ることが課題なのではなく、現に感じている苦痛、どういう状況であろうと感じてしまう苦痛について、そのそれぞれの苦痛を軽減するなりやり過ごすなりする方法を人それぞれがみつけるものなのだ、ということかもしれない、とは思えるのかもしれません。