さみしい問題0

さみしい、という苦痛、を感じることが問題(さみしくなければこの問題は全然考える必要がない)なので、経験則の問題になるかと思いますから、どういうときに私がさみしくなりがちであるか、どのようにすればそれを避けられるか、避けるのが不可能なら、どうすればさみしさを軽減できるか、という話になるかと思いますし、とりあえずその方向で考えていこうと思います。(さみしいと言っても、ほとんど死を感じるくらいの大きな苦痛です。死は大げさです。)(さみしいなんて言ってますけど、自ら望んでるではないですか、自業自得ではないですか、となるかもしれませんが、その場合、なぜ望むか、なぜ自業が起こるのか、を考える、ということになります。すみません……)
その前に、経験以外の部分も気に留めておこうと思います。これはメモです。強引に、隣人と原理原則どちらを優先させるか、という問題で考えると、隣人なくして原理なし、であるというのが正解だとは思うのですが、私は常に原理原則を優先させてきました(させていません)、しかし、世の中(=私の属する世の中=結局は私)は隣人優先だった、みたいな話になるかと思います。(ここで言っている「世の中」とか「私」は永井さんやウとは全く関係ありません。)私が隣人より原理を優先させてきた、隣人優先の傾向を見るとあからさまにそれに逆らってきた(逆らうほうにシンパシーを感じた。実際は逆らえないが)、のは、私が隣人を苦手とする傾向にあるからだ、ということになるかと思います。ここから全面的に経験の話に入って行きます。同じことの別の面の話かもしれませんが、恋愛(=隣人)に露骨な能力判定や差別意識が好みという名前で出てくるとしたら、友人知人関係でもそれはまったく同じかそれ以上だし、仕事(=原理)でも同じだろう、ということです。人は物を買うときお金を渡すだけで済ますわけではなかったということです。私は隣人判定レベルでは勝負にならない(そこでは生活できない)ので、過剰に原理(ほとんど現実に適用できないような抽象的な型、というよりも、隣人判定への反発)を必要としました、という雰囲気の話だと思います。それが隣人軽視(とは思っていませんが現実的には)につながっていると思います。