「「知っている」と言えない」とはどう言えないのか

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中村昇『ウィトゲンシュタイン ネクタイをしない哲学者』(白水社)を読んでいます(読めていません)。
全部で280ページほどの本なのですが、100ページを越えてもすいすい読めて全く盛り上がりが無いので困ったなぁと思っていたところ、124ページでいきなり何度読んでも意味がわからない場所にぶつかり、一筋縄ではいかなくなってきて、131ページで急に盛り上がりました。それからはずっと引っかかり続けています。124ページ以前も実は全然読めていなかったのだと思います。すみませんでした。

私たちのあり方が、事実として「自分の痛みを知っている」という言い方ができないようになっているのか(というか、こういう言い方をすれば、正確に事態を言い当てていないことになるのか)、あるいは、私たちが使っている言葉の都合だけによって「自分の痛みを知っている」という言い方ができないのか


中村昇『ウィトゲンシュタイン ネクタイをしない哲学者』(白水社)P131

この箇所は私にとって相当微妙な感じです(すみません……)。まだあまりよく理解できていません。

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私は他人の痛みを知ることができないのとは異なり、自分の痛みを知ることができる。私は他人に痛みを感じない。他人の顔が強く殴られたときに、私の顔のあたりに強い痛みを感じるようなことが起こったとしても、その痛みは私の痛みであって、他人の痛みではない。私の痛みは私にしか起こらない。だから「私は痛い」というのは冗長な表現であって、「痛い」だけ言えばそれでじゅうぶん足りる。また、他人は私が痛い時に振舞うような行為を時々行う。そのとき私は「(その人は)痛いのだな」と思い、「私が痛いときと同じように振舞っているので痛いのだな」とは思わない。だから、他人は私が痛い時に振舞うような行為を時々行う、のではなく、他人は時々痛がる。
同様に「私は私が痛いことを知っている」というのも冗長な表現である。自分の痛みは、痛くないかもしれない、という間違いの可能性が無い。痛いと感じれば痛いし、痛くなければ痛くない。痛いと感じたけれども痛くなかった、だとか、痛くなかったけれども実は痛かった、ということは、ありえない。私は痛かったら痛いのであり、「痛いことを知っている」という文脈は存在しない。(内観の対象知覚的解釈に対するウィトゲンシュタインの批判(『入門』より)。)
こうしたことは、事実痛みというものがこのようになっているのか、痛みの文法なのか、という問いは、「事実痛みというものがこのようになっているのか」という問いも「痛み」という言葉(とそれが前提としている概念)を使うことなしに言及できないのだから、結局文法だ、ということではなかったか……。でもこれは『ウィトゲンシュタイン入門』コピペであって、中村さんの問題意識とは違うような気もする。
でも

「自分の痛みを知っている」と言うとき、あきらかに「知っている」は余計です。「知らない」可能性は無いから(自分の痛みに気づいていない場合もあるかもしれないけど、それは「痛み」じゃないということにしましょう)


中村昇『ウィトゲンシュタイン ネクタイをしない哲学者』(白水社)P145

というのは明らかにおかしいように読めるので困ります……。自分の痛みに気づいていないとき、というのは、明確に「痛くない」ときではないか。明確に、ではなく、単に痛くないとき、なのではないか。いまは痛くないけどひょっとしたら痛いのかもしれない、なんてことは100%以上ありえない、のではないか。これは痛みの定義というか、まさに痛みの文法じゃないでしょうか、などということはもちろん中村さんは100%以上ご存知なのだし、このような強張り、言い張りたくなってしまう気持ちの中に何かあるような気がしますし、まだ中村さんの考えは全然理解できていないので、しばらくは読み進めていこうと思います。たしかに、「本当は痛いけど自分の痛みに気づいていない」状態、というような言い方は一切許されない、かというと、そうでもないような気はします。
他にも今年出てまだ読んでいない本が2冊あるので、楽しみです。

ウィトゲンシュタイン―ネクタイをしない哲学者 (哲学の現代を読む)

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