意見と意見ではないもの

私は自分の解釈をヴ ィトゲンシュタインにおしつけるつもりはない。ヴ ィトゲンシュタインが私のように考えたのでなければ彼の見解は間違っている、と言いたいだけである。


永 井均『<私>のメタフィジックス』P29(強調は原文では傍点)

『<私>のメタフィジックス』を読んでいると怒りの分析が出てきました。私はこの日記で自分の必要性(私は怒りっぽい)から怒りの分析をやっているのかと思っていたのですが、そうではなく、過去に『<私>のメタフィジックス』を読んだことを忘れ、怒りの分析をやることが何か意義のあることだという既定の評価の上で、怒りの分析をやらされていた(要するにマネしていた)だけということがわかり、日記消したくなりましたが消していないということは消したくなかったということでしょうか。
それはともかく、本当には意見に反対することも賛成することもできない、という考え方からすれば、上の引用は引用にも値しない傲慢な意見だということになりそうですがそうではなく、なるほどそうなるんだろうな、と思えます。この思いは、本当には意見に反対することも賛成することもできない、という考え方とどのように両立するのか、あるいは異なるのか。


『科学哲学の冒険』を読んでいて最初から最後まで不満だったのは、常に、この書は「科学的実在論」を擁護するために書かれている、と著者が表明していたように書かれていた、ことにあります。もちろん本はどのように書かれても構わないのだし、初学者としてはひとまず本を、本が書かれているように本にそって読む(「可能性の中心」を読む)のが正しい読み方だとは思いますが、「科学的実在論」を擁護するために書かれている、という姿勢に最後までなじめませんでした。
擁護したかろうがしたくなかろうがそういった気持ちには関係なく、擁護せざるをえない、「科学的実在論」が正しいと考えざるを得ない、あるいは、間違っていると考えざるを得ない、というところまで考えるべきなのではないでしょうか。そこまで考えていないのに、なぜ、「「科学的実在論」を擁護したい」と思うのでしょうか? その思いとは何なのでしょうか。
科学的実在論」を擁護するのに必要なのは、「科学的実在論」への熱い情熱でもなく、擁護する動機や意図を本の最後で「本心」を恐る恐る語ることでもなく、「科学的実在論」が正しいと考えざるを得ない(「科学的実在論」は間違っていると考えざるを得ない)というところまで考え抜くことではないでしょうか。
ソフィーの世界の主人公を思わせる口の悪い学生の結論ありきの姿勢、自分がシンパシーを感じる考え方が正しいと最初から決め付け、後はその正しさをどのように主張するか、自分の気持ちに反対する相手をどのように反論しやっつけるか、ただそれだけをぶちまけている姿勢、そしてそれを何かまっとうな姿勢のように評価している本書、を読んでいると、私のようなものが偉そうに語れることではないと思いますが、人の思いとはなんなのか、そもそもものを考えるということがどういうことなのか、「哲学」とはどういうものなのか、について、改めて考えることを、させられました。
『科学哲学の冒険』は「はじめに」から「あとがき」まで著者が表明している通り、「「科学的実在論」を擁護したい」という意見の主張のために書かれた本ですから、まさに、「本当には意見に反対することも賛成することもできない」という意味で、読む側がその意図や意義を最大限汲み取る意志を持って読むべきだと思います。多くの方が高い評価をつけておられますから、真面目に勉強すれば得るところも多いのではないかと思います。しかし私にはつらかった。私がこういう姿勢だから、もう言い訳のできない年齢になっても、なにひとつ満足にできないままなのだと思います。