銀河鉄道999

ラストの鉄郎とメーテルが別れるシーンは、後年になっても伝説の感動シーンとして語り継がれている。本シーンの収録の際、野沢・池田共に感極まって泣きながら演じ、他のスタッフももらい泣きした。


銀河鉄道999 (アニメ) - Wikipedia

テレビアニメ版のスリーナインは、めっちゃおもしろいで!!! と言いたい。正直に言うとあまりおもしろくない。見ると心が80%ぐらいガッカリ感で満たされる。正直に言うと見ると5分でもう見るのやめようかな感に120%くらい満たされる。つまり、見なきゃよかった、となる。いつもこうなる。にもかかわらず、定期的に全回(全113話! 毎週やってまる2年!)見たくなるときが来るだけでなく、しんみりしたい、号泣したい、嗚咽したい、と思うときには、必ず999のことを思い出す。それは大げさですが。120%のガッカリをくつがえす0.8%の核が確かにある。核、が、確かに、といったような確固としたものは何もないのだけれど、何かぼんやりとした何かがある。そのなにかの0.8%のうち90%はメーテルであることは考える必要はなく確かなのだけれど、あとの10%は、貧乏とか、どこまでいっても四畳半とか、近代的で豪華なホテルに入ったら部屋が畳敷きだったとか、宇宙の果てまで行っても全部日本とか、鉄郎とか、そういうこととあわさった120%のガッカリ感が、120%のガッカリ感と言えてしまうくらいの安心感を持っていることが関係しているように思う(映画版はテレビアニメの感動に底上げされた上にまったく別の話として構築されているのでまっすぐに感動しやすい)。しかし大事なのはメーテルのほうだ。メーテルがいい、と言ってみると、「へぇ…… メーテル…… まあいいよね」くらいにいままでの私は思っていた。特にメーテルに対してこだわりを感じたことはいままで一度も無かった。好きだとも嫌いだと思わなかった。あまり興味が無かったのだと思います。死にそうになってもいつも謎の声がして助かるのでなんか怪しいなぐらいにしか思っていませんでしたし例のシャワーシーンもそれが親と一緒に見るには恥ずかしいシーンかもしれないという意識すらありませんでした。しかしそれは間違っていました。私は私にもう一度ちゃんとメーテルのことを考えてほしいと思っている。メーテルに意識を集中させてほしい。メーテルは相当凄い。メーテルは相当凄い、ということをちゃんとわかるべきではないか? あんな人は他におらんで。
漫画全館、テレビアニメ全113話、見たあとに、映画版999、さよなら999、の順に見るべきだとは思いますが、テレビアニメ全113話見ると50時間ぐらいかかるので適当なところで切り上げて映画版を見ようと思います。ここで野沢さんと池田さん、ではなく、鉄郎とメーテルが感極まって泣いたのだな、と思いながら見ると泣けると思います。



月曜日に永井さんの実物を肉眼で見たので原点(ではないですが)に戻って考えなおしてみようと思い『<私>のメタフィジックス』をちょっと読んだのですが遠い場所の話に思えるかなあと思っていたところ最近の本にも書かれていそうなことが書かれているように思えて全然今の問題意識のまま読めるように思いました。私がいまの問題についていけてないだけかもしれませんが。