水は価値を決めない問題

無駄な妄想です。

まず、以下の恥ずかしいたとえ話を考えます。

お風呂(風呂)に入らないでいるとくさい。これは非常に考えさせられる事実です。
たとえば、もし、お風呂に入らないでいるといい匂いになるのであればどうなるか。だらしなくてお風呂に入らない人、あるいは様々な事情によりお風呂に入ることができない人、がいい匂いになる。だからといって、お風呂に入る人がくさくなるわけではない。もしお風呂に入ることによりくさくなるのなら、お風呂に入った人はくさくならないような対策をたてるはずです。お風呂に入らないでいるといい匂いになる場合、清潔さを求めるという理由(だけ)で、いい匂いがしているのにわざわざお風呂に入る気になるだろうか。お風呂に入らないでいるといい匂いになるのであれば、お風呂に入らないでいることが、「汚い」という理由で、良くないとされることはなかったのではないか。いわゆる「ホームレス」と呼ばれる人も、もっと尊敬されるのではないか。
重要なのは、風呂に入らないという事実が、くさい、という直接的な事実と、汚い、という文化的価値(? あるいは、物理的事実?)、または、だらしない、という社会的価値(?)と結びついているという点です。この、ある意味、ベタな事実によって、もし風呂に入らないという「悪い」習慣が良い匂いという事実と結びついていたらどうなるか、という考えへと導かれるわけです。

ここでは、最も直接的な価値観の発露を、「くさい」ということに求めました。くささに比べれば、清潔かどうかなんて、想像上の話です。(病気が頻発する、といった事実が確認されれば、清潔さは重要な事実となります。)しかし、くささ、などというものも、直接的な事実というよりは、ここ最近の社会的状況下で初めて問題になること、のようにも思えます。明治時代、江戸時代、は、地域によっては、いまよりずっと「くさかった」のではないか? お風呂に入らないことが、全然くさくない時代もあったことは確実なように思えます。現在においては、お風呂に入らないでいるとくさくなるのではなく、お風呂に入らないでいる、という事実が発するメッセージが、くさい、という事実である、ということかもしれません。つまり、お風呂に長く入らないでいる人に近づいたときに感じるものが、くさい、という感覚だ、ということかもしれません。だから、それがいい匂いであることは、文字通り、ありえないこと、なのではないか、ということです。その場合、お風呂に毎日入ることをしないことが、どうして、耐え難い匂いを発してしまうほどに、重要なことになるのか。もちろん、「不潔だから」ではないでしょう。

上をふまえて、以下について考えます。

絵というのは文字よりも昔に生まれているし、こどもの頃も字が書けるより前に絵が描けるようになると言うのに、なぜ多くの人が絵を描くのを止めてしまい、しかも苦手意識まで持つようになるのかは結構不思議だ。


http://d.hatena.ne.jp/jkondo/20080201/1201819919

私に知識がないからかもしれませんが、「こどもの頃も字が書けるより前に絵が描けるようになる」と言えるかははなはだ疑問なのですが、それはともかく、「絵というのは文字よりも昔に生まれているし、こどもの頃も字が書けるより前に絵が描けるようになる」ということが事実だとしても、そのことと「多くの人が絵を描くのを止めてしまい、しかも苦手意識まで持つようになるのか」はあまり関係がないのではないか。外しているかもしれませんが、これを関係させることは、男と女が重量挙げで対決したら男が勝ち、男と女が将棋で勝負したら男が勝つという事実が観測されれば、男のほうが女より優れている、と結論付けたり、水に水の悪口(水っぽくて味がない、など)を言うと水が生き物のように動き出し悪口を言った人の口と鼻の穴をふさいで悪口を言った人を殺そうとしたら、水に悪口を言うことは道徳的に劣っていると結論付けたりすることに通じるような、不穏なものを感じます。不穏なものを感じるほうが的外れだ。全然関係ない。とも思えます。まあ「結構不思議だ」のニュアンスにどこか価値的な感じのあることが、性格の悪い僕に邪推されるだけで、これは、「もっと気軽にどんどん絵を描けば楽しいよ!」というお誘いであると思うのでまっすぐ受け取ればありがたいことだと思います。これは相当無理しました。すみません……。
なにかの価値を語る場合、自然や事実(自然科学的事実)に関係させるのは、要注意(要注意だと思ってしまう自分の感覚に注意)、ということでしょうか。