「警鐘(を鳴らす)」について

「警鐘を鳴らす」について、以前から、どこか居心地の悪い、なにか不思議な感じを持っておりましたので、少し考えてみることにしました。下手な考え休むに似たり、と言います。私は自ら進んで面倒なこと、努力が必要なことをする人間ではありません。これは謙遜や卑下ではなく、これまでの経験から厳密に導き出された単なる結論です。手を離した野球のボールはこれまで一度も空中に留まることはなかった。野球のボールから手を離すと必ず落下した。それと同じくらい確実に、私は努力をしない、ということがこれまでの観測から結論付けられた、というわけです。私は、私が最もしなければならないこと、やってしかるべき課題、を全くしません。一度もしたことがありません。私には、人間として重大な欠点があります。あるいは、そう思い込んでいます。そう思いながら、私はそれほど立派な人間ではないのだから欠点ぐらいあって普通だ、と思いつつ、しかしやはり人と話ができないのは異常ではないか?部屋が7年以上ゴミ屋敷なのは何か間違っているのではないか?と思っています。それら様々な欠点について、毎日毎時間悩まされています。ではその欠点を克服する努力をすれば良いではないか。これまで何の対策も努力もしていないのならば、ちょっとの努力で劇的な効果を挙げるのではないか。それによって私は、もしかすると少しはましな人間になれるのではないか。想像的にではなく現実的に、私が普通の人間(誰にでもきちんと挨拶をし、ゴミ屋敷ではない部屋に住む人間)であるという結果を受け入れられるのではないか。しかし私には勇気がなく(これは勇気の問題であるような気がしています。勇気とは自由意志で何とかなる範囲の問題でしょうか。私はそう(勇気とは自由意志で何とかなる範囲の問題、であると)思っています。)全く努力も対策もしていません。ですから、かどうか、「警鐘を鳴らす」について少し「考えた」からといってそれが思考の名に値する行為かというと、そんなことはないと思います。むしろ仕事の勉強、人生において考えなければならないこと、そういったことから目をそむけ、白昼夢に興じ、無意味な遊びに戯れ(……。)ているだけだと思います。そう思うならやめればよいではないか。そう思います。でもやめませんでした。本当に申し訳ない気持ちでいっぱいです。これは本当に全くおもしろい話ではありません。
まず、「Aは警鐘を鳴らしている」と表現されたときも、そもそも鐘は鳴っていません。「カーン」などと鳴っていれば(聞こえれば)、鐘、つまり、警鐘、が鳴っているな、と思うことができますが、「Aは警鐘を鳴らしている」と表現されたときも何も聞こえてきません。つまり、何も鳴っていません。何も鳴っていないのに、何故「警鐘を鳴らしている」などと表現するのか。
カマトトぶってはいけない。知っているくせに知らないふりをするなんていやらしい(前の文と同じ意味です)。「警鐘を鳴らす」というのは実際に鐘を鳴らすわけではない。そういう比喩表現、慣用句であることは、わかっているはずだ。それはそのとおりです。それはその通りなのですが、では、「警鐘を鳴らす」はどのような表現なのか? もしそれが比喩なら、何の、どのような比喩なのか?
音そのもの、空気の振動そのものには、警告を発する意味など含まれていません。ただの空気の振動、耳に聞こえるもの、であるだけです。ではその空気の振動に過ぎないもの、耳に聞こえるだけのものが、警告となるのは、どのような仕組みによるのでしょうか。どのような経路により、ただの音が、警告、警告を知らせる鐘の音、警告を知らせる鐘が鳴らされている音、となるのでしょうか。

(1)戦い・災害などの、危険の迫っていることを知らせるために鳴らす鐘。
(2)よくない事態に向かっていることを告げ知らせるもの。また、その知らせ。
「物質文明に対する―であろうか」


けいしょう【警鐘】の意味 国語辞典 - goo辞書

(つづく)